矛盾










概要 故事成語の「矛盾」の元は中国の古典『韓非子』の中の「盾と矛」の話である。 この話では「何でも突き通す矛」と「どんな攻撃も防ぐ盾」の2つがあることは片方が本当なら片方はウソということになって、両立しない。 このような「つじつまの合わないこと」を「矛盾」と言うようになった。
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矛盾 - Wikipedia





osho






恐怖は知性だが、常軌を逸したものになりうる
 
 恐怖は自然なもの、罪は聖職者たちがつくったものだ。罪は人間がつくったものだ。恐怖は本来備わっていて、なくてはならないものだ。恐怖がなければ、あなたはまったく生き延びることができないだろう。恐怖は正常なのだ。火の中に手を入れないのは、恐怖があってこそだ。国の法律がどうあろうと、右側や左側を歩くのは、恐怖があってこそだ。毒を避けるのは怖いからだ。トラックの運転者が警笛を鳴らすと、あなたがよけるのは、怖いからだ。
 もし子どもに恐怖がなければ、生き延びる可能性はまったくないだろう。彼の恐怖は命を守る手段だ。だが、この自分を守るという自然な傾向ゆえに……そして、それに悪いところはなにもない――あなたには自分を守る権利がある。あなたには守るべきとても尊い命があり、まさに恐怖があなたの助けになる。恐怖は知性だ。恐怖がないのは愚かな人たちだけだ、まぬけな人たちには恐怖がない。だから愚かな人たちを守らなければならない。さもなければ彼らはやけどしたり、建物から飛び降りたり、泳ぎ方を知らないのに海に入っていったり、蛇を食べたりすることだってあるかもしれない……とにかく、やれることならなんでも!
 恐怖は知性だ――だから、蛇が道を横切っていくのを見たら、あなたは飛びのく。それは臆病なのではない、それはたんに知性なのだ。だが、ふたつの可能性がある……。
 恐怖は常軌を逸することがある、病的にもなりうる。そうなったら、怖がらなくてもいいものまで怖くなる――もちろん、常軌を逸した恐怖にすら、あなたはその根拠を見つけることができる。たとえば、家に入るのが怖い人がいる。論理的に、彼が間違っているとは証明できない。彼は言う、「家が崩れないという保証はないだろう?」
 
 さあ、家は崩れるものだというのはみんな知っているから、この家だって崩れるかもしれない。家が崩れて潰された人たちがいる。この家は絶対に崩れないとは誰にも保証できない――地震が起こるかもしれない……どんなことだってありうる! 別の人は恐れている――彼は鉄道事故がありうるから旅行できない。またある人は恐れている――彼は車に乗りこむことができない、自動車事故があるからだ。さらに飛行機が怖い人もいる……。
 恐怖は常軌を逸することもある。そのときは病的だ。そうなる可能性があるために、聖職者たちはそれを利用した、政治家たちはそれを利用した。あらゆる種類の圧制者たちがそれを利用したのだ。彼らはそれを病的なものにする、そうすれば、あなたを搾取するのはいとも簡単になる。聖職者は地獄を怖がらせる。ちょっと経典を見てごらん――あらゆる拷問を描写して、どこが楽しいのだろう、どこがうれしいのだろう。
 
 Osho, The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol. 2, #2 より抜粋
 
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 恐怖があるとき、あなたが恐怖なのだ
 
 「私は恐怖を感じている」と言ってはいけない。それは間違った言い方だ。「私は怖い」と言ってはいけない。それも間違った言い方だ。ただこう言うがいい、「私が恐怖だ。この瞬間、私が恐怖だ」。いっさい分けてはいけない。
 「私は恐怖を感じている」と言うとき、あなたは感じていることと自分を分けている。あなたはどこか遠くにいて、感覚はあなたを取りまいている。これが基本的な不一致だ。こう言うがいい、「私が恐怖だ」。そして見守りなさい――それがほんとうのところだ! 恐怖があるとき、あなたが恐怖なのだ。
 
 Osho, Unio Mystica, Vol. 1, #8 より抜粋
 
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 勇気を選びなさい
 
 恐怖は自然なものだというのはわかる! だが、それに囚われてはいけない。それを脇にどけておきなさい。それがあったとしても、進んでいきなさい。つねに覚えておくがいい、勇気のある人と臆病な人との違いは、勇気のある人には恐怖がなく、憶病な人には恐怖があるということではない――違う。それが違いなのではない。両者ともに恐怖がある! 割合は同じだ。だとしたら、どこに違いがあるのか? 違いは、勇気のある人は恐怖を顧みずに進み、臆病な人は恐怖ゆえに立ち止まるということだ。両者ともに恐怖がある!
 恐怖心のない勇気ある人がいるとしたら、彼には勇気があると言うかね? 彼は機械だろう、人間ではなく。恐怖がないのは機械だけだ。だが、機械には勇気があるとは言わない。機械には勇気があるとどうして言えるかね? 勇気とはただ、恐怖にもかかわらず何かが起こっているということだ。恐怖はそこにある、震えがそこにある、だが、それはあなたを止めていない、あなたはそれによって遮られていない。あなたはそれを踏み石として使う。動揺している、震えている。だがそれでも、あなたは未知なるものへと入っていく。
 両方の可能性がどの人間にもある! 恐怖と勇気。ふたつのうちどれを選ぶかにすべてがかかってくる。けっして恐怖を選んではいけない。それは手足を不自由にする、麻痺させる。あなたを破壊する、復活のチャンスを与えずに。勇気もまたあなたを破壊する。だが、その破壊はとても創造的だ――あなたを生まれかわらせる。
 恐怖と勇気、両方とも破壊する――だが、恐怖は破壊するだけだ。種はただ腐ってしまう。勇気の種を土壌にまいたら、それもまた死んでしまう――だが、腐ることはない。それは死ぬ……それは死んで新しい現象になる。芽が出てくる。
 勇気は恐怖と同じくらいあなたを殺す。だが、恐怖はあなたに新しい命を与えずに、あなたをただ殺す。勇気はあなたに新しい命を与える。勇気を選びなさい――つねに勇気を選びなさい。
 
 Osho, Walk Without Feet, Fly Without Wings and Think Without Mind, #4 より抜粋
 
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 恐怖は欲望の副産物
 
 恐怖とはなにか? まず第一に、恐怖はつねになんらかの欲望のまわりにある。あなたは有名な人に、世界でもっと有名な人になりたい――そのときには、恐怖がある。そうなれなかったらどうだろう? 恐怖がやって来る。いいかね、恐怖は欲望の副産物としてやって来る――あなたは世界一の金持ちになりたい。もし成功しなかったら? あなたは震えだす、恐怖がやって来る。あなたはある女性を自分のものにしている。明日は自分のものにできないかもしれないというのが怖い、彼女は誰かほかの人のところに行くかもしれない。彼女はまだ生きている、彼女は行けるのだ。行かないのは死んだ女性だけだ、彼女はまだ生きている。あなたが自分のものにできるのは死体だけだ――それなら恐怖はない、死体はそこにあるだろう。家具を自分のものにすることはできる、それなら恐怖はない。
 だが、人間を自分のものにしようとしたら、恐怖がやって来る。誰にわかるかね、昨日、彼女はあなたのものではなかった、今日はあなたのものだ……。誰にもわからない――明日には彼女は誰かほかの人のものになるかもしれない。恐怖がわいてくる。恐怖は、自分のものにしたという欲望からわいている、それは副産物なのだ。自分のものにしたいがゆえの、恐怖だ。自分のものにしたくなければ、それなら恐怖はない。将来はあれやこれやになりたいという欲望がなければ、それなら恐怖はない。もし天国に行きたくなければ、それなら恐怖はない、それなら、聖職者はあなたを怖がらせることができない。あなたがどこにも行きたくなければ、それなら、あなたを怖がらせることは誰にもできない。
 あなたが瞬間に生きはじめたら、恐怖は消える。恐怖は欲望を通してやって来る。だから基本的には、欲望が恐怖を生みだすのだ。
 
 Osho, The Heart Sutra, #4 より抜粋
 
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 自我という概念が死の恐怖を生む
 
 死ぬのが怖いかね? 仏陀は言う――あなたは死ねない、もともと、あなたはいないからだ。どうして死ねるかね? 自分の存在に見入ってごらん、その中に深く入ってごらん。見るがいい、そこに死ぬ誰がいるのか? そして、そこにはどのような自我も見つからないだろう。そうだとしたら、死はありえない。自我という概念だけが死の恐怖を生む。自我がなければ、死はない。あなたは完全な沈黙、不死、永遠なのだ――あなたとしてではなく、広い空として、「私」という、自己という、どのような概念にも汚されていない――無限で、定義づけられていないのだ。それなら、恐怖はない。
  恐怖がやって来るのは、そこにはほかのものごとがあるからだ。あなたはそれらのものごとに目を向けなければならない、そして、それらに目を向けることで、ものごとが変わりはじめる。だから、どうすればそれを制したり、消したりできるのか尋ねないでほしい。それは制すべきものではない、それは消すべきものではない。それを制することはできないし、それを消すこともできない。理解することしかできない。理解をあなたの唯一の原則にするがいい。
 
 Osho, The Heart Sutra, #4 より抜粋
 
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 恐怖を受け容れなさい
 
 恐怖には独自の美しさ、独自の繊細さと敏感さがある。事実、それはとても微妙な生気だ。その言葉は否定的だが、その感覚そのものはひじょうに肯定的だ。怖がることができるのは生きているプロセスだけだ、死んでいるものには恐怖はない。恐怖は生きていることの一部、繊細であることの一部、壊れやすいことの一部だ。
 だから、恐怖を受け容れなさい。恐怖で震えるがいい、自分の土台を揺さぶられるがいい――深いところまでかき混ぜられる体験として、それを楽しむがいい。恐怖に対してはどのような態度もとってはいけない。それどころか、それを恐怖と呼ばないことだ。恐怖と呼んだ瞬間に、あなたひとつの態度をとったことになる。あなたすでにそれを非難している。あなたはすでに、それはよくないと、そこにあってはならないと言っている。あなたはすでに守りの態勢に入っている、すでに逃げている、逃げだしている。とても微妙なやり方で、あなたはそれと自分とのつながりを断っている。だから、それを恐怖と呼んではいけない。これはもっとも本質的なことのひとつだ――ものごとを名前で呼ぶのをやめること。その感覚を、そのありようをただ見守るがいい。
それを許しなさい、そして、それにラベルを貼らないように――無知なまでいなさい。無知は途方もなく瞑想的な状態だ。無知であることにこだわりなさい、そして、マインドが操ろうとするのを許していけない。マインドが言語や言葉、ラベルやカテゴリーを使うのを許していけない。なぜなら、それには一体となった過程があるからだ。ひとつのことが別のことに結びつき、それが延々と続く。
 
 ただ見るだけでいい――それを恐怖と呼ばないこと。怖くなって震えるがいい――それは美しい。隅に隠れて、毛布の下に潜りこんで震えるがいい。怖いときに動物がやることをやるがいい。怖いと、幼い子どもはどうするかね? 泣くだろう。あるいは文明化されていない人――彼はどうするかね? 怖くてひざまずき、神に祈るだろう。
 
 Osho, Above All, Don’t Wobble, #4 より抜粋
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 恐怖は、自分の存在に入る扉のひとつ
 
 もし自分が恐怖に取りつかれることを許したら、身の毛がよだつだろう。そこで初めて、いかに恐怖がすばらしい現象なのかがわかる。その動揺の中で、その竜巻の中で、あなたは自分の内側のどこかに、依然としてまったく触れられていないポイントがあるのがわかるようになる。そして、もし恐怖がそれに触れることができないのであれば、そうであれば死はそれに触れることができない。まわりじゅうに闇と恐怖があるが、それを完全に超越しているごく小さな中心がある。あなたは超越しようと努力するわけではない――あなたはただ、恐怖が完全に取りつくのを許すだけだ――だが、突然、あなたはその対照的な違いに気づく。
 だから、恐怖や怒りや悲しみ、あるいはなんであろうと起こったら、それを許すがいい。扉を閉め、その中に入り、その中でリラックスすることだ。ものごとにラベルを貼る訓練を受けていない幼い子ども、ただ感じていることを生き、そのことに関する考えを持っていない、幼い子どものようにふるまうがいい。
 恐怖は、自分の存在に入る扉のひとつだ。それはもっとも抑圧されているもののひとつだ。人類全体が、世界のどこであろうと、ふたつのタイプに分けられる。ひとつはセックスに対して抑圧的、もうひとつは死に対して抑圧的だ。社会は死を抑え込むか、セックスを抑え込むか、どちらかだ。社会がセックスを表現するようになり、それを恐れなくなり、そのことへのタブーがはずれ、禁制が解けると、いつでもすぐに死を抑え込むようになる――すぐに、というのも、死は正反対のものだからだ。だから、セックスを許したら、死を抑え込まなければならない。もしあなたがセックス抑え込んだら、そのときは死の恐怖はない、あなたはそれを許すことができる。
 
 Osho, Above All, Don’t Wobble, #4 より抜粋
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 恐怖とはつねに、未知なるものへの恐怖だ
 
 あなたは恐怖を落とさなければならない。そして、内側で感じていることと恐怖のどちらを選ぶかとなったら、内側で感じているほうを選びなさい。恐怖を選んではいけない。ひじょうに多くの人たちが恐怖心から自分の宗教を選んだ。だから、彼らは中途半端に生きている。彼らは宗教的でもなければ世俗的でもない。彼らは優柔不断に生きている。
 恐怖は役に立ちそうにない。恐怖とはつねに、未知なるものへの恐怖だ。恐怖とはつねに死の恐怖のことだ。恐怖とはつねに、道に迷うことへの恐怖だ。だが、ほんとうに生きたかったら、道に迷うかもしれないという可能性を受け入れなければならない。未知なるものの危なっかしさを、馴染みがないもの、見知らぬものの不安感と都合の悪さを受け入れなければならない。
 それが、後につづく祝福のために払わなければならない対価なのだ。そして、それを払わないかぎり、なにひとつ達成されない。あなたはそれを払わなければならない、さもなければ、あなたは恐怖で麻痺したままだろう。あなたの生全体が失われる。
 
 Osho, Yoga: The Science of Living, #4 より抜粋
 
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 恐怖とは愛の不在にすぎない
 
 Osho,
 私の人生は恐怖に支配されているようです。助けてくださいますか?
 
 助けてあげよう。そのために私はここにいるのだよ! 誰の生も、多かれ少なかれ、恐怖に支配されている。というのも、人生の生き方はふたつしかないからだ。愛に支配されるか、それとも恐怖に支配されるか。普通、愛することを学んでいなければ、それは恐怖に支配されている。
 愛がなければ、恐怖がそこにあるしかない。それは愛の不在にすぎない。それには実在性が何もない。それは愛の不在にすぎないのだ。だが、もしあなたに愛することができたら、恐怖は消える。愛の瞬間には、死さえない。生において死を克服するものはひとつしかなく、それが愛だ。すべての恐怖は死に関係している――そして、愛だけが死を克服できる。
 だから、あなたにひとつ言いたいのは、恐怖に注目しすぎてはいけないということだ、というのも、それが自己催眠になってしまうからだ。恐怖で生きることを繰り返しつづけたら、あなたの生は恐怖に支配される、あなたは恐怖に制圧されるようになる――さらなる恐怖、恐怖、恐怖――そうなったら、あなたはそれを助長している。それに気づいていなさい、あなたの生は恐怖によって支配されていることに――終わらせなさい! それは愛がまだ、恐怖が消えるほど強くなっていないことを示しているだけだ。恐怖は症状にすぎない、それは病気ではない。その治療法はない、その必要もない。だから、それは症状にすぎないし、とても役に立つ、なぜなら、あなたはもうこれ以上自分の生を無駄にするべきではないことを示しているからだ。それはあなたに、もっと愛しなさいと言っているだけだ。
 
 だから、私は恐怖について話すつもりはない。私はあなたがもっと愛するように助けよう――そうなれば、結果として恐怖は消える。恐怖に直接働きかけはじめたら、あなたはそれを強めしまう。なぜなら、あなたの注意すべてがそれに集中するからだ。それは、誰かが闇を打ちやぶろうとして、どうやって闇を打ちやぶるかに集中し、とりつかれているようなものだ。闇はもともとそこにはないのだから、闇を打ちやぶることはできない。闇がそこにあるという事実に着目するがいい――それから、光を持ちこむ方法に取りくむがいい。
 
 Osho, Hammer on the Rock, #19 より抜粋
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 ただ気づくようになりなさい
 
 あなたは自分が怖がっていることがわかるポイントにやって来て、理解するようになる。「この恐怖ゆえに、私には愛が起こりえないのだ。そうか、わかった、私にできることはなんだろう? 恐怖はそこにある、だから、起こることはひとつしかない――私は愛しているふりをしないようにしよう。あるいは、私は自分が愛している人や恋人に、私があなたに執着しているのは恐怖があるからだと言おう。奥深いところで、私は恐れている。そのことに正直になろう。誰もだまさないようにしよう、私自身も含めて。これが愛だというふりはしない。これは恐怖にすぎないのだと言おう。恐怖ゆえに、私はあなたにしがみついている。恐怖ゆえに、私は寺や教会に行って祈る。恐怖ゆえに、私は神を思いだす。しかしその一方で、これは祈りではない、これは愛ではない、これは恐怖にすぎないのだとわかっている。私が恐怖なのだ。だから、私がなにをしようと、それはそこにある。私はこの真実を認めよう」
 ひとつの真実を認めると、奇跡が起こる。認めること自体があなたを変える。自分の存在の中には恐怖があり、そのことに関してどうすることもできないとわかったら、なにができるかね? あなたにできるのは、ふりをすることだけだ。そして、その見せかけはまさに極端にはしる、正反対の行動をとる……。
 あなたは正反対のものを作りあげることができる。だが、これではなにも変わらない。自分は怖くないふりをすることはできる――それでも変化は生じない。唯一起こりうる変容とは、「私が恐怖だ」ということにあなたがただ気づくことだ。「私の全存在が震えていて、私がやることはすべて、恐怖から来ている」。あなたは自分を偽らなくなっている。
 
 Osho, The Book of Secrets, #60 より抜粋
 
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 恐怖とはなにか理解しようとしてごらん
 
 問題は、なにかを取りのぞくことではない。問題は、理解するかどうかだけだ。恐怖を理解する、それはなになのか、そして、それを取りのぞこうとしていけない。なぜなら、なにかを取りのぞこうとしはじめる瞬間、あなたにはそれを理解する気がないからだ――取りのぞこうと思うマインドはすでに閉ざされているからだ。それは理解するために開かれてはいない、共感がない。静かに見つめることができない。それはすでに結論を下している。もはや恐怖は悪に、罪になっている。だから、それを取りのぞく。なんであろうと、取りのぞこうとしてはいけない。
 恐怖とはなにか理解しようとしてごらん。そして、もしあなたに恐怖があるのなら、それを受け容れるがいい。それはそこにある。それを隠そうとしてはいけない。逆のものを作りあげようとしてはいけない。あなたに恐怖があれば、あなたには恐怖があるのだ。自分の存在の一部としてそれを受け容れるがいい。もし受け容れることができたら、それはすでに消えている。受容を通して、恐怖は消える。拒絶を通して、恐怖は強まる。
 
 Osho, The Book of Secrets, #60 より抜粋




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