
マインドフルネスとは何か?
マインドが消えると、思考が消える。それは、あなたがマインドレスになるということではない。逆に、あなたはマインドフルになる。仏陀はこの「正しいマインドフルネス(正念)」という言葉を何百万回も使う。マインドが消え、思考が消えると、あなたはマインドフルになる。あなたはいろんなことをする――あなたは動く、あなたは働く、あなたは食べる、あなたは眠る、だが、あなたはつねにマインドフルだ。そこにマインドはないが、マインドフルネスがそこにある。マインドフルネスとは何か? それは気づきだ。それは完ぺきな気づきだ。
Osho, And the Flowers Showered, #11 より抜粋
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正しいマインドフルネスはゴールではない
Osho,
「正しいマインドフルネス」を説明してください。ゴールや実践するようなものではないとしたら、それは何なのですか?
「正しいマインドフルネス(正念)」は不思議な言葉だ。まず、その中にはマインドがない――だからこそ、それは「正しいマインドフルネス」と呼ばれている。次に、その中に正しいとか間違いとかはいっさいない――だからこそ、それは「正しいマインドフルネス」と呼ばれている。これは仏教徒のものの言い方だ。
それはゴールではあり得ない、なぜなら、ゴールがあれば、あなたはつねに間違った側にいるからだ。ゴールがあると、なぜあなたは間違っているのだろう? ゴールがあると、欲望があるからだ。欲望があると、あなたは不幸だ、満足していない。欲望があると、不安がある――それを成しとげることができるのか、できないのか? それは可能なのか不可能なのか?
欲望があると、未来がある。そして未来とともに、不安があなたの実存に入りこむ。欲望があると、あなたは現在とのつながりを失っている。
正しいマインドフルネスはゴールではない、ゴールではあり得ない――というのも、すべての欲望が消えて、すべてのゴールが消えて、あなたが今ここにあるとき……それが正しいマインドフルネスの瞬間だからだ。
なぜそれは「正しい」と呼ばれるのだろう? 正しいと呼ばれるのは、正しいとか間違いとかの区別を知らないからだ。何ひとつ間違いではない! そして、何ひとつ正しくはない。すべての判断が消えているのだ。人はまったく無垢だ。
バラの花を見るとき、あなたの中に考えが浮かぶだろうか――「これは正しい、これは間違っている」? 明けの明星が消えていくのを見るとき、あなたの中に考えが浮かぶかね?「これは正しいのか間違っているのか?」。判断せずに、先入観を持たずに人生を見はじめるとき、そのときあなたは正しいマインドフルネスの状態にある。
Osho, Walk without Feet, Fly without Wings, and Think without Mind, #9 より抜粋
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マインドの臨在とは、実際にはノーマインドの状態だ――それをマインドフルネスと呼ぶことができる
Osho,
マインドの臨在とは、なにですか?
マインドの臨在とは、実際にはノーマインドの状態だ。それをマインドフルネス、気づきと呼ぶことができるし、ノーマインドの状態とも呼べる。これらの言葉は互いに矛盾しているようにみえるが、それらは同じ状態を示している。マインドの臨在とは、現在にあるということ、自然に起こるということ、まさに今、何が起こっていようとその場にあるということだ。今とここに応じられるということが、マインドの臨在なのだ。だが、今とここに応じられる唯一の方法は、過去にいることではない、未来にいることではない。
そして、マインドは過去と未来で構成されている。マインドは現在のことは何も知らない。マインドはつねに占領されている、占領されていないということはけっしてない。そしてマインドが占領されておらず、まったくどんな思考もなく、ただ見守り、油断せず、意識しているときはかならず、大いなる臨在が現われる。その臨在が、ひとりでに働く。その臨在が、あなたの生を反応ではなく、感応の生にする
普通の生は反応の生だ――あなたは反応する。反応とは、過去に従って現在の状況に反応しているということだ。それではまったく合わない、というのも、生はけっして自らを繰り返さないからだ。
Osho, The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol. 8, #10 より抜粋
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瞑想で、あなた深く安らいでいる
Osho,
私は40年ほど瞑想をやっていますが、依然として神の実現というゴールからは遠く離れたままです。どうすればいいのでしょう?
神をゴールにするのは、間違った方向に動きだすことだ。神はゴールではない、というのも、ゴールという観点から考えると、神があなたの欲望に、欲望の対象になるからだ。そうなると、神の実現はエゴの究極の美化以外の何ものでもない。だからあなたは逃しつづけているのだ。
それに、私はあなたが40年間どのような瞑想をしてきているのか知らない。それは何か間違った種類のものに違いない。正しいマインドフルネス――仏陀が語っているもの――ではあり得ない、何か間違ったマインドフルネスに違いない。あなたはきっとある種の精神集中をやっていて、これが瞑想だと思っているはずだ。
これはもっとも間違った考え方のひとつであり、世界のいわゆる宗教界に、とくにインドでは、とても広く行きわたっている。集中は瞑想だと思われているが、集中は瞑想ではない。それはまさに瞑想の逆だ。集中はマインドの現象なのだ。何かに集中するとは、自分のマインドの焦点を何かに合わせているということだ。それにはそれなりの利点があるが、それらの利点は科学的なもので、宗教的なものではない。科学では、集中が必要だ。集中は科学的な手法だ。
そして、あなたがたの学校、専門学校、大学、すべてがあなたに集中の準備をさせる。というのも、彼らが行なう準備とは、科学のゴールに向けてのものであって、宗教上の体験に向けてものではないからだ。集中とは、あなたが焦点を合わせているひとつのこと以外のすべてをマインドから排除することだ。
瞑想とは、まったく何にも焦点を合わさないということに尽きる、神にすら――まったく焦点を合わさない。だから、それは何ひとつ排除しない、すべてを含む。瞑想であなたはリラックスする、集中であなたは緊張する。瞑想で、あなたは深く安らいでいる、何が起こっていようと、ただ気づいている。
Osho, The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol. 8, #2 より抜粋
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仏陀はそれを「正しいマインドフルネス(正念)」と呼ぶ
マインドは政治だ、というのも、マインドは野心に満ち、野心は政治の根だからだ。もしあなたが野心に満ちていたら、あなたは政治的なのだ。あなたの野心は宗教という形を取るかもしれないが、そこには政治がある。そのときは、あなたは他の聖者たちと競い合っている……。
私がここでやろうとしていることは、まったく政治とはかかわりのない、異なる生き方をあなたに教えることだ。マインドを落ちていかせない。自分のマインドの奴隷であってはいけない。マインドがあなたにかけている迷惑のすべてを、マインドがあなたの中につくりだしている混乱を、マインドがあなたを陥れている混沌をもっと意識しなさい、もっと気づくようになりなさい。ただ油断しないようにしなさい、気をつけなさい。そうすれば、ゆっくり、ゆっくりと、あなたの油断のなさが育つにつれて――仏陀はそれを「正しいマインドフルネス」と呼ぶ――あなたはマインドから抜け出すことができる。マインドから出ると、あなたは政治から出ている。さもなければ、何をやろうと、それはすべて政治だ。たとえあなたが何もやらなくても、それもまた政治なのだ。あなたは参加しているのだ、積極的だろうと消極的だろうと。投票すればあなたは参加している、投票しなくても参加している、消極的なやり方で。ほかに選択肢はなさそうだ。どちらにしても、あなたはその一部だろう。