背番号をつけるとしたら、何番がいい? ブログネタ:背番号をつけるとしたら、何番がいい? 参加中


小学生~高校まで


サッカーやってました


全盛期は


小学生www


地元の選抜チームに選ばれ


TVにも出ましたw


DF以外は全てやったので


好きな背番号は




11


って感じですw


キャプテン翼世代なんでwww


キーパーの時は


SGGK
※Super Great Goal Keeper
若林源三気分で


1番♪


MFの時は


ゴールデンコンビの翼の相方
岬君♪


11番♪


なんか翼君より岬君派でしたw
【キャプテン翼】 南葛 11番 岬太郎 Tシャツ 白
¥1,995
楽天

※モバイル非対応


ここからは引用♪byウィキ


若林 源三


修哲小 - 南葛SC - ハンブルガーSV

南葛市出身で、父は地元の名士で裕福。兄が2人おり、ジョンという名の犬を飼っている。 元日本代表GKである見上辰夫からコーチを受け、小学5年生時に修哲小学校サッカー部として無失点で全国制覇という快挙を成し遂げ、小学校6年の時点で2人の高校生が同時に放ったシュートを両方止めたり、中学生の野球部員がペナルティエリアの外から投げた野球のボールまでセーブしたりするほどの実力に達していた。

【小学生編】では南葛市に転入して来たばかりの大空翼 に、いきなり挑戦状(ボール)を叩き付けられる。当初は傲慢で自己中心的であったが、翼達との戦いの中で大きく成長。南葛SCでは守備の要として活躍し、チーム内で一番の信頼を得て初代キャプテンを務めた。しかし、南葛SCの選抜テストの最中に足首に怪我を負い、地区予選決勝で敵のラフプレイによって更に悪化したため、全国大会では決勝戦しか出場できなかった。その決勝戦でも試合中に怪我が再発するが、最後までゴールを守り続け、自身としては2年連続の全国制覇を果たす。

小学校卒業後には見上の誘いで西ドイツへ渡り、GKとしての実力を目覚しく伸ばす。この頃知り合ったカール・ハインツ・シュナイダー とはライバル関係になる。西ドイツに渡った当初は人種差別を受けたりライバルに集団リンチされるなど苦労をするが、持ち前の負けん気と才能でチームの要に成長する。

【ジュニアユース編】ではハンブルガーSVの正GKとして全日本と対戦し、日向小次郎 のタイガーショットを含む全日本のシュートをことごとく止めた。試合終了間際に日向にわざとゴールを許し、その事が原因で日向と乱闘騒ぎになった。その後、全日本に合流。監督となった見上に頼まれ、チームメイトに奮起を促すために必要以上の罵声を浴びせるなどの悪役を買って出る。また「実力のある選手が試合に出られないのはおかしい」と発言し、若島津健 への奮起を促すと共に反対されていた翼の代表入りを後押しした。若林自身は大会に出場する気はなく、嫌われ役に徹するつもりであったが、決勝の西ドイツ戦において若島津の負傷と森崎有三による説得、さらにわざと悪役を務めていたことを日向に明かされた事により、チーム全員の後押しを受けスタメンとして出場。2失点を喫するが試合終了までゴールを守り抜いた。練習では2分の1の確率で決められていたシュナイダーのペナルティエリア外からのシュートも決勝では1本も決めさせず、普段以上の力を本番で発揮する能力を「一流の証」とシュナイダーに評された。大会終了後にハンブルグとプロ契約を結び、対バイエルン戦でわずか15歳にしてプロデビューを果たす。

【ワールドユース編】ではブライアン・クライフォートとステファン・レヴィン に腕を片方ずつ破壊され、キャッチができない状態ながらもアジア予選グループリーグを戦い抜く。対中国戦で右腕を更に負傷し戦線離脱するが、本戦の決勝トーナメント時に怪我を完治させ復帰、ワールドユース優勝に貢献した。なお、決勝戦にて再び両手を負傷し、その結果ブンデスリーガの1シーズンを棒に振ってしまい、チームの低迷を招いた。また、公式試合にて2度もペナルティエリア外からゴールを許してしまうものの、負傷していたことを考慮してか、それ以降の作品では「絶好調の若林からペナルティエリア外からのゴールを奪えた者はいなかった」という事になった。

【ROAD TO 2002】の対バイエルン・ミュンヘン 戦で監督の指示を無視してオーバーラップし、フリーキックでゴールを狙ったが、逆にシュナイダーにセンターサークル付近からゴールを許してしまう。この事が元で監督とは不仲になってしまい、外国人枠の問題もあり試合を干されてしまう。後にバイエルンに移籍する様な流れを匂わせていたが、結局曖昧なまま連載終了。

【GOLDEN-23】では、ドイツブンデスリーガのハンブルグで「3試合連続出番無し」という状況にあり、これは監督との不仲が原因だと言われている。その後現U-22日本代表監督の吉良耕三に呼び出され、背番号24を付け代表に復帰する。また、移籍問題も浮上し、シュナイダーも心から若林のB・ミュンヘン入りを望んでいる。2000年にシドニーオリンピック 応援用に描かれた読み切りで「今期よりB・ミュンヘンに移籍」と描かれていたが、読みきり執筆から8年たった2008年現在も本編では「来期移籍」という予定が描かれただけで、若林の移籍問題は宙吊り状態である。



岬 太郎

南葛小 - 南葛SC - 西峰小- (フランス在住、所属クラブなし)- 南葛中 - 南葛高校 - ジュビロ磐田  (テクモ版では南葛高校(II) - シャンゼリゼ(III) - マルセイユ(IV) - パリ(V)))

ポジションはMF。大空翼 の盟友であり、通称「フィールドのアーティスト」。出身地は不詳であり、画家である父親と全国各地を転々とする生活をしていた。そのため、所属チームも転々としており、どのようなタイプの選手とでもすぐにコンビプレーができる抜群の適応能力を持っている。翼に匹敵するほどの実力の持ち主であり、南葛小に転校してきて以来、翼と共に「ゴールデンコンビ」と呼ばれ、偶然ながらツインシュート も放っている。南葛小以前には、明和FCやふらの小に所属経験があり、日向を小次郎と呼び、松山を呼び捨てにする間柄である。他人を思いやる優しい性格で、小学生時代には離婚した父親を気遣い、母親の事は父親の前では話さず「自分にはもったいない息子」と父親に言わしめた。天真爛漫な翼と比較して大人びた面を見せている(母親と再会した時は涙を流していた)。その一方で、試合での正念場などでは激しい気性を見せることもある。

【小学生編】では南葛に転校して以降、翼と抜群のコンビプレイで南葛の全国制覇に大きく貢献した。その後、父親の仕事の都合で渡仏。多くのクラブチームからスカウトを受けるが翼達ともう一度プレーする日を夢見て全て断っており、特定のチームに所属せず、草サッカーだけを続けていた。後にピエールと出会い、ライバルとなる。

【ジュニアユース編】では片桐に代表入りを勧められるも、長年のブランクのある自分ではチームの足を引っ張るのではないかと悩んでいた。その後、フランスの町で偶然翼に再会、チーム入りを決意する。その後の練習ではブランクをいささかも感じさせない華麗な動きを見せ、本大会でも翼とのコンビプレイで大活躍し、優勝に大きく貢献した。その後、岬の大会でのプレーを見た父親が富士山 を描く決意を固め南葛中学に転校、短期間ではあるが卒業まで再び翼と同じ時間を過ごした。

【ワールドユース編】ではJリーグに入団せず、ワールドユースに専念しようと皆に提案する。全日本離脱後は世界を放浪し、各国の情報収集やブーメランシュートの習得などに努めた。その後、妹をかばって交通事故に遭い、大会出場は絶望視されるが、驚異のリハビリで無理をおして決勝戦のみ途中出場し、日本の優勝に大きく貢献する。なお、アジア予選終了時にパリSG にスカウトされているが、上記の負傷を理由に話は流れ、J・J・オチャドが代わりに入団することになる。

【ROAD TO 2002】では長期の再リハビリから復帰し、フランスリーグへの挑戦の前に、ジュビロ磐田 に入団し活躍する。

【GOLDEN23】では日本の中心選手として活躍する。リハビリによって下半身の優れたバランスを得たが、そのたび重なる無理のため、左足にこれ以上傷を負うと選手生命の危機に関わると忠告されている。

主な背番号は11番。フル代表等では、「3+8」(=11)の背番号を使用している。また、ジュビロ在籍時には35番を使用した。

翼や日向 と比べれば引き立て役の役回りが多いにもかかわらず、殆どの人気投票では一位になっている。

テクモ版では、「III」でフランスに渡り、「IV」では翼の所属するサンパウロと、「V」では松山の所属するマンチェスターと対戦した。基本能力は高いが、浮き球以外の必殺シュートが無い為、若干翼より扱いづらくなり原作での描写が再現されている。