映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ともかく私は、映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる壮麗な徴たちの飽和…。(オリヴェイラ)

『あらくれ』 成瀬は常に発見に満ちている

 

今年は変な年だった。前半は暇で、後半はやたら忙しく、だから3月から5月にかけてはオリヴェイラを観、若尾文子主演作を観ては、ブログを更新してはいたのだが、後半は全く映画を観れなかった。新作も旧作も観ていない。唯一観た三宅唱の新作も、横浜聡子の新作もピンとこなかった。

 

やれやれと思いつつ、年の瀬。

「シネマリス」なる新しい映画館に行こうと思いつつ、早稲田松竹で成瀬をチョイス。成瀬を映画館で観るのは10年ぶりくらい。今回観たのは『妻』と『あらくれ』。それぞれ2回くらいは観てると思う。

 

意外にも『妻』にノレなかったのだが、高峰三枝子が操る洋裁装置(子供の頃、ウチにもあったがこれなんて言うんだ?)が出す「ジャッ」という音、上原謙が愛人の子供をあやすおもちゃが出す「ジー」という音が面白かった。絶対、意識的にやってると思うんだが、成瀬って、こういうことするんだ、と。

 

で、今回、圧倒的だったのが『あらくれ』。命の洗濯をした。素晴らしかった。

 

高峰秀子と上原謙が宿屋の2階、自室に入ってくる。カメラは二人を窓外から捉え、上原謙は窓枠に腰を下ろしカメラに背を向け、高峰はその傍に立ち、二人は話し出す。

このシーンをまず窓外から捉えるというのが、いかにも昔ながらの映画の作りであって、また成瀬映画には特徴的なシーンの入りだと思う。しかしセットを組まない今どきの映画であれば、この位置にカメラを据えることはまずありえないし、どこか窃視的なアングルであるように感じ、この位置にカメラを据えることを躊躇するかもしれない。

もちろん、成瀬も撮影の玉井正夫もそんなことは感じないだろう。部屋に入ってくる二人を捉えるための、ごく普通のアングルとして、そこにカメラを据えただけのように思う。

 

それはともかく、続いて、このショットから同軸上の二人のウエストショットを挟み、高峰が上原謙の隣に座り彼にしなだれかかると、カメラは逆に入り、室内から二人を捉えたやや寄ったサイズのアングルとなる。高峰の座る動作によるアクションつなぎがスムーズで心地よい。

 

そして高峰が立ち上がると、同様のアクションつなぎで彼女のバストショット(よりちょっと引いた感じ)。高峰は室内を歩き回り、上原謙の声は画面外から聞こえ、カメラは彼女をずっとフォローする。

このショットが素晴らしい。

 

廣澤榮の『日本映画の時代』で、『驟雨』について「使用したレンズのことを玉井正夫に聞くと、バストや七分身は50ミリ、フルサイズも50ミリぐらい、ミディアムバストが75ミリだった」「成瀬サイズというのは着物の合せ目くらい、それ以上寄ったサイズはない」そうだが、50mmレンズは人の視覚に近い標準レンズで、つまり、実にオーソドックス、突出することを好まない成瀬らしいレンズとサイズの選択であることがわかる。「絵の流れが止まるから(玉井正夫)」だそうだ。

 

その中で、このショットはおそらく「75ミリ」レンズで撮られた望遠っぽいショットで、その空気感が素晴らしい。しかもフィックスを常とする成瀬にあって、ふわりとパンし続けるカメラの動き、その動きの途中からこのショットをつなげることで躍動感が出る、画面展開に活気が出る。

 

成瀬映画において特徴的なショットとまでは言えないだろうが、思い出せるのは『乱れる』で加山雄三が義姉の高峰秀子に自分の想いを打ち明ける、映画の技巧の全て、演出技術の全てに満ちた超絶絶品最強シーンで、立って話す二人の姿がこの「75ミリ」レンズによるものだったと記憶する。

『あらくれ』では他に、高峰秀子と旧友である中北千枝子が話すシーンでも、同様のショットが用いられていた。

 

二人が歩きながら話すのを、二人のウエストショットのトラックバックで捉えた後、「鼻緒が切れた」と中北が言い二人は立ち止まる。中北がしゃがみ込むと、いかにも成瀬らしく、そのアクションつなぎでカットを割り、カメラを低く中北を捉える。次のショットが高峰なのだが、これが(多分)75ミリ。高峰は中北の周囲を回るように動き始め、カメラはその動きをパンしてフォローする。

 

特段すごいことをしているわけではもちろんない。「絵の流れが止まる」ような突出を成瀬は決して許さない。しかし、これら(多分)「75ミリ」で捉えられたショットが素晴らしいのは、その中で不意に映画が現出したような、映画の仕組みそのものが露わになるからだ。

 

成瀬が「さぁ高峰さんご自由に演じてください」と言ったかのように、高峰は不意に動き出し開放的になる。カメラも演出も高峰に対し従属的になり、彼女をフォローするしかなくなる。

撮影や演出や役者、ではなく、そこにいるヒトが動き出し、それを捉えることが、映画の撮影であり、映画の演出である、ということ。「映画」にはそれしかできない、ということ。

 

 

追記①

『あらくれ』は『おかあさん』『夫婦』(井手俊郎と共作)『あにいもうと』『山の音』『浮雲』『驟雨』と続いた水木洋子との最後の作品。こう書くと、なんかエライことになってて、傑作しか書いてないじゃん、って感じだが、それはともかく、観た多くの人が感じると思うのだが、『あらくれ』は『浮雲』の陽キャバージョンって感じ。

出てる人が皆おんなじ、ってのは日本映画あるあるだが、にしても、岡田茉莉子が出てないだけで(松竹の人だし)、あとみんな「浮雲」と同じ。森雅之がインテリ風の陰キャで、千石規子が出てきた時には驚いた。

 

追記②

それと今回気づいたのが効果音の使い方。

金魚屋などの物売り(もちろん)チンドン屋などの声や太鼓の音、三味線や長唄を稽古している声などが、全編を通じて流れていて、前述した『妻』のノイズにも近い効果音もそうだが、成瀬って意外にこういうこともするのね、ってのを今回、初めて気づきました。ちょっとマキノっぽいのな。

 

追記③

マキノっぽいついでに言うと、時々、成瀬って、目線によるトリッキーなシーンつなぎ、カットつなぎをすることがあって、例えば街を歩く高峰秀子が何かを発見したかのように足を止める。次にその主観ショット風に三浦光子を捉えるのだが、カメラが三浦の動きをフォローすると、高峰がフレームインしてくる。つまり主観ショットが客観ショットに変容したわけで、他にも目線の先が違うシーンだったり、ちょっとトリッキーなつなぎがごく稀に入る。マキノっぽいというより、岡本喜八的であって、そういえば『浮雲』のチーフ助監が岡本喜八なのだが、マキノと成瀬って今ひとつ接点がわかんないね。同じ東宝にいて仲良かった感じがしない。

 

追記④

ただ、こういうこと言うと怒られそうだけど、成瀬って、コメディ向きじゃない気がする。三浦光子とのキャットファイトまであるし、加東大介(「ひげだるま」!)もおかしいんだけど、どうも弾けないのな。どう撮っていいか手をこまねいてる感じ。この辺が川島雄三と違うとこか。

ちなみに川島との共作『夜の流れ』は、共作ってんで全然話題に上らないけど、とってもいい映画です。でも川島雄三とも仲良かった感じがしない。

山本薩夫『私の映画人生』によれば、「PCL(写真化学研究所。後の東宝)の監督のなかでは、成瀬さんは山中さんと一番仲がよかった」そうです。

 

成瀬が戦地の山中貞雄に送った手紙

 

 

追記⑤

ちなみに、10年ほど前に、なぜかツイッターであげた成瀬ベスト。

 

1/流れる、乱れる、稲妻、女が階段を上る時、妻の心、驟雨 

2/おかあさん、石中先生行状記、あにいもうと、まごころ、妻として女として 

3/なつかしの顔、秀子の車掌さん、噂の娘 

4/めし、晩菊 

5/銀座化粧、三十三間堂通し矢物語、娘・妻・母、夜の流れ

 

『あらくれ』入ってないじゃん。『浮雲』は入れ忘れ。別格だな。

あとこん中には入ってないけど、『女の歴史』とか後年の大作仕立ても全然悪くないし、成瀬って、ホント愚作ってのがないね。

 

みきちゃん最強伝説。

 

増村保造と川島雄三 『爛(ただれ)』と『女は二度生まれる』を中心に

 

有楽町の若尾文子映画祭で『爛(ただれ)』を観た。

一方、川島雄三の大映3本をDVDで観た。

ホントはフィルムセンターの中川信夫に行くべきなんだろうが、チケットの販売システムが変わってからどーも行きづらい。

それはともかく。

 

私は『爛(ただれ)』を増村の最高作だと思っており、『女は二度生まれる』は映画ベストに必ず入れる巨大、絶品映画である。

今回、何度目かを見直してみて、やはり川島雄三の方が凄い、少なくとも私は川島雄三の方が好きだと改めて思った。

もちろんそんなことを比較しても詮無い。しかし、年齢も、活躍した年代も違う二人をつい比較したくなるのは、共に若尾文子の代表作を撮った監督であり、そして画面構成がちょっと似てるところがあるからだ。

 

増村も川島も、画面を何かで覆い尽くす。

『爛(ただれ)』であれば、若尾文子が田宮二郎からあてがわれているマンションに置かれた様々な小道具が画面を覆い隠し、二人はその間から顔を覗かせるだけだし、マンションから一歩外に出ると、狭い坂道の両側を石垣が迫り、画面の三分の二を不気味な石の質感が覆い尽くしている。

 

川島の画面を覆うのは「枠」であって、複雑な和の空間は若尾文子を柱や襖や障子の細い桟でとり囲む。もちろん吉村公三郎にしろ市川崑にしろ和の意匠を画面に取り込むことは珍しいことでは全くない。日本映画なんだもん。

しかし川島雄三の場合、これらの和の意匠が突出している。マンションやアパートのような洋空間であっても、柱や装飾的な枠が画面を埋める。

 

増村は、カメラと演者の間に生活雑貨を配置し(ナメて)、まるでどこかから盗撮しているような閉鎖的な空間を造形し、その空白に演者をレイアウトする。

川島は縦と横のラインで枠を形作りその中に演者を配する。いや、演者はデザイン的にレイアウトされるというよりも、スクリーンに設けられた複数の枠を移動する、といった方がいいだろう。そして、この枠の中で若尾文子は男に抱かれようとしている。

 

こうした画面配置から見てとれるのは、増村は、夾雑物の向こうに顔を見せる演者たち、僅かな空白にレイアウトされた演者たちに観客の視線を固定化、中心化しようと図る一方で、川島はむしろ若尾文子から離れた視点、客観的な視点を導入し、決して観客の視点を中心化しないところにある。むしろ複数の枠は観客の視線から若尾文子を排除しようと図る。

 

だから、増村におけるカッティングとは、レイアウトされた画面の連続であり、演者たちは画面の中のレイアウトされた位置に誘導され続ける。

田宮二郎が久々に自宅に帰り、本妻、藤原礼子と喧嘩し、再び家を出るシーンのアクション映画のような見事さは、演者たちがあらかじめ決定された位置に次々に収まることの連鎖を観る快感に他ならない。

 

ところが川島雄三的空間は観客の視点を決して中心化しないばかりか、意外なほど外部に対して開放的であり、観客の視点を拡散させる。密室劇『しとやかな獣』であってさえ、あの団地の一室は全ての登場人物が行き来する開かれた場としてあった。ミヤコ蝶々は土足でその部屋にずかずかと入ってくるのだ。

 

『女は二度生まれる』でも同様に、ほとんど全てのシーンで窓や襖は開かれており、その窓や襖の格子が枠を形作ることはもちろん、その向こうでは物語とは全く関係のない隣人や作業員がうろうろしている。若尾文子を見ようとする観客の視線は邪魔され、拡散される。そしてセックスシーンに移行する際、観客が若尾に欲望を感じるや否やその部屋は閉じられてしまう。

 

閉じられる空間

 

 

私は前回「増村ってカッティングがおざなりというか、ルーティンにこなしている風」と書いた。

しかし増村の方がよほど画面構成とその編集に通じている、考えている。いかに観客の視点を誘導し、演者に視点を中心化するか。

 

しかし私は「あんまり好きじゃない」。多くのショットはデザイン化され、独立して存している風でありながら、しかしその実、それぞれのショットは演者に中心化され、つまり物語に多くを依拠している。そのような画面をシステマティックに連鎖させる官僚性が増村にはあるように思う。

 

川島が考えるのは画面構成ではない。いかに演者たちは動くか。画面構成は後付けである。演者たちは枠から枠へと自由に行き来する。川島も増村も画面を覆い尽くす。しかしその手順は全く逆だ。

それぞれのショットはあくまでも物語に沿って配置されながら、物語を裏切り、物語から独立し、演者は物語を離れ自由に動き回っている。

 

 

こーゆーこと書くと怒られそうだけど、

やっぱ銀座で遊びたおした男と東大出のインテリの違いってあるわな。

それと、見た目。


 

川島雄三の『女は二度生まれる』について、ネットでの評言の多くが「はじめは女として、二度目は人間として」生まれ変わるということだと書いている。初めて聞いた。だからラストシーンは奔放に生きる女性が様々なしがらみを捨て、初めて自分らしい生き方を見つけたシーンとなるのだそうだ。

 

そんなわけない。彼女は地獄にいる。

これまで閉じられた空間の中で男に抱かれてきた彼女は、山のふもと、自然の中に開かれた駅舎の中では、ただうなだれて座ることしかできない。

駅舎という枠の中にいる彼女を観客は観る。全てに絶望し、純粋な少女を恐れる女は、もちろん山に行くことはできない。

枠の向こうには緑があり、山がある。しかし彼女はその枠から出ていくことができない。

そんな彼女を川島は恐ろしく冷静に見つめる。いかようにも彼女を観てくれと川島は言う。その複雑で自由な視点、巨視的な視点は増村にはない。

 

 

彼女はひらかれた地獄にいる

 

 

『女は二度生まれる』

1961年(S36)/大映東京/カラー/99分

■監督・脚本:川島雄三/脚本:井手俊郎/原作:富田常雄/撮影:村井博/美術:井上章/音楽:池野成 

■出演:若尾文子、藤巻潤、山茶花究、フランキー堺、山村聰

 

『爛(ただれ)』

1962年(S37)/大映東京/白黒/88分 

■監督:増村保造/脚本:新藤兼人/原作:徳田秋声/撮影:小林節雄/美術:下河原友雄/音楽:池野成  

■出演:若尾文子、田宮二郎、水谷良重、船越英二、藤原礼子、丹阿弥谷津子、弓恵子

 

 

吉村公三郎『婚期』

 

有楽町は若尾文子映画祭の最終日に『婚期』を観た。

初見だと思っていたのだが、またも途中で観ていたことに気づいた。全く覚えていなかったのだが、多分、最初に観たとき多くのシーンで寝てしまったのだと思う。

さもありなん、ネットではいろんな方が褒めてるんだけど、全然、つまんない。

 

水木洋子の書いた台詞はチャキチャキしていて、60年代ナウな言葉がイカすのだが、いかんせん、この台詞を言わせとけば喜劇としての体裁は整う、みたいな作りが辛い。

いや、俺が観たいのは、兄嫁(京マチ子)と小姑二人(若尾文子と野添ひとみ)が互いに陰謀を巡らしての心理戦、丁々発止の物語が見たいんでさぁ。

映画館に置かれたプレスシートによれば吉村公三郎は「女性の偽善性」を「つかみ出してみたい」と言っているのだが、その時点でなんか違うんじゃねーの、と。

 

しかもこの豪華女優共演を、吉村公三郎先生と宮川一夫先生は、文芸大作みたいにがっちりしっかり丁寧に撮るわけだ。

確かに、宮川一夫先生の撮影は恐れ入りましたな見事さで、襖や障子の微妙な陰影やらシルエットやらがもぉ絶品なんだが、この題材にそれ必要ですか先生。このワンカットに何時間かけてんだよもっとチャキチャキ撮ってカット稼いだほうがいいんじゃないの、と川島雄三ならきっと言う。岡本喜八も言う。市川崑はちょっとわからん。

ああこの脚本を川島雄三で観たかったなぁと心の底から思うのだった。

 

見どころは近眼の若尾文子とハゲ。中条静夫が頭を剃ってる。

この全然笑えない映画の中で、ハゲネタは時代を超えて鉄板で面白いね。

そして、ババァ北林谷栄。というか主演は北林谷栄なんじゃん、くらい、出てくると全部持ってく。

 

結構、露出度高めなお色気シーン

 

北林谷栄の孫娘、田中三津子。今風に可愛い。

 

 

『婚期』

1961年(S36)/大映東京/カラー/98分

■監督:吉村公三郎/脚本:水木洋子/撮影:宮川一夫/美術:間野重雄/音楽:池野成

■出演:若尾文子、野添ひとみ、京マチ子、船越英二、高峰三枝子、北林谷栄、弓恵子、三木裕子、藤間紫

 

 

有楽町の「若尾文子映画祭 Side:B」で2本。増村保造『刺青』と吉村公三郎『夜の素顔』

 

『刺青』

宮川一夫の撮影と若尾文子の啖呵(「金が惜しけりゃ、女に惚れんな!」)はやはり何度観ても絶品。

ただこの頃からか、大映の色調が生っぽくなったと感じるんだがどうか。

それと、時代劇の重厚な設えを避けようとしたのか、どこどこ(意味なく)カット割るのはいかがなものかと観るたびに思う。

増村ってカッティングがおざなりというか、ルーティンにこなしている風で、あんまりショット意識がなく、だからどーもあんまり好きじゃないんだよね。

 

増村ってより若尾文子のアイドル映画。佐藤慶との共演作はこれだけすかね。

 

 

『夜の素顔』

こちらは初見。本映画祭で一番観たかった作品ではあるのだが、まーぼちぼちの出来。

 

シネスコ横いっぱいに銃剣が構えられる、技巧派・吉村公三郎らしきショットではじまり、以降、技巧的なショットが不意に挿入されるのだが、逆に言えば、残りの多くはルーティンなショットの連鎖、演出の旨味を感じることもない。

展開もモタモタしてるし、淡路島や鹿児島の風景が踊りとの二面割で延々と展開するので、かなり退屈でありました。

 

だから見どころは、京マチ子 VS 実母・浪花千栄子、京マチ子 VS 弟子・若尾文子のバトル。

それと、京マチ子、若尾文子の何気なお色気シーン。京マチコが船越英二と唐突にキスするシーンや若尾文子が根上淳の指にキスするカットがすごいエロい。

 

健気な弟子、仁木多鶴子も見どころ。

 

 

と、ぼちぼちの出来とはいえ、巨匠吉村公三郎を擁した大作、十分に楽しめるので、若尾ちゃんに免じてよろしくお願いしたい。

 

よろしくね。

 

 

『刺青』

1966年(S41)/大映京都/カラー/86分

■監督:増村保造/脚本:新藤兼人/撮影:宮川一夫/照明:中岡源権/美術:西岡善信/音楽:鏑木創
■出演:若尾文子、長谷川明男、山本学、佐藤慶、須賀不二男、内田朝雄、藤原礼子

 

『夜の素顔』

1958年(S33)/大映東京/カラー/121分

■監督:吉村公三郎/脚本:新藤兼人/撮影:中川芳久/美術:間野重雄/音楽:池野成

■出演:京マチ子、若尾文子、根上淳、船越英二、菅原謙二、細川ちか子、小野道子、岸正子、柳永二郎、仁木多鶴子、細川ちか子、浪花千栄子

 

 

『歓びの喘ぎ 処女を襲う』『ドキュメントポルノ 舌技に泣く』あるいは二人の女優について

 

6月15日からラピュタ阿佐ヶ谷で「伴明です」と題し、高橋伴明特集。

ピンクに的を絞って2本観た。

 

高橋伴明といえば、高校生の時、彼の初の一般映画「TATTOO[刺青]あり」にえらく感動したのだった。

なぜならえらく格好良かったからで、トップシーン、検死官(荻島真一)が宇崎竜童の血まみれの死体をタオルで拭い「TATTOOあり」と呟くとドーンとメインタイトルin、ってところから、母親(渡辺美佐子)が宇崎の遺骨を抱えホームのベンチに座る、頭にはかのチロル帽、そこに宇崎竜童「ハッシャバイ・シーガル」がドーンと流れるラストシーンまで、もぉ実に格好良かった。

 

宇崎竜童が扮するのは、かの異常犯罪者、梅川昭美なのだが、アウトローに寛容な「映画」は、反体制だとか悪の魅力だとかいっては犯罪者を美化する。美化というのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも暴力的な男性をヒーローとして扱う。

高橋伴明は、梅川昭美が占拠した銀行の中でしたことについてはさすがに口をつぐむのだが、彼の銀行襲撃を「男のケジメ」として扱う。そのきっかけとなる関根恵子のスローモーションがこれまた格好いいし、彼女の新しい男、全身入れ墨のヤクザの姿がまたまた格好いい。宇崎竜童はこの男が山口組組長を狙撃したことを知り、銀行に押し入るのだ。

 

今回ラピュタで観た高橋伴明のピンク2本でも下元史朗はやけに格好いい。

「歓びの喘ぎ 処女を襲う」の下元史朗は学生運動に挫折した過去をもつ男なのだが、下元史朗が格好いいのは彼が暴力的だからだ。例えば山本圭が左翼学生を演じてもちっとも格好良くないのは、彼がインテリだからで、暴力を全く感じさせないからだ。

 

高橋伴明は左翼にしろ犯罪者にしろ、常に暴力を感じさせる存在として男性を描き、それに従属する女性を描くマッチョな映画作家である。

 

だから2025年の今、この2本を観ると、その男性観が正直、きっつい。

学生運動への挫折を言い訳にした下元史朗の虚無は、彼の暴力性に屈服する女性に依存する単なる独りよがりでしかなく、だから、公害や過疎の漁村、知的障害の妹、近親相姦というドラマがルーティンな三題噺としか思えない。

 

「ドキュメントポルノ 舌技に泣く」はラストあたりで理に落ち着き、大杉漣が(声だけ出演して)全部説明してくれるのがつまらない。

 

と高橋伴明を批判した。マッチョ、男根主義、女性蔑視。

しかし、それでも私は高橋伴明がとても好きだ。言を翻して何だが、高橋伴明はどうしたって格好良いからだ。

 

「TATTOO[刺青]あり」のパンフレットに松田政男が伴明のピンク映画作品について一本づつ解説を書いていて、それに沿って彼のピンク映画をなるべく観ようとしていた時期があった。

有名どころだが、「襲られた女」では「自惚れワルツ」と泣きの記念写真が、「少女を襲う!」ではフランスパンの墓標が、「少女情婦」ではライターがメチャクチャに格好良かった。

高橋伴明はマッチョであると同時に、恥ずかしいくらいにナイーブな青春映画、あるいはアメリカンニューシネマに最も近い日本映画を撮る男であった。

 

そして、今回初めて観た2本では朝霧友香と山地美貴がものすごくいい。

二人の映画を久々に映画館で観た懐かしさもあって、涙が出るくらいに素晴らしかった。

朝霧由香がテーブルに肘をつくアップでメインタイトルが入るかっこよさ、一人二役の彼女がカットバックされる絡みのシーン、そもそも朝霧由香は当時のピンク女優屈指の美しさなのだった。

 

そして山地美貴。私がピンク女優で当時一番お世話になった人なのだが、正直、芝居はどっちゅうことない。しかし下元史朗の痩せた筋肉質の体との絡みは山地美貴史上最も美しかった。特に彼女が騎乗位となる際のアップの素晴らしさ。

 

二人は下元史朗の暴力に与しながら、しかし、圧倒的に下元を凌駕している。

 

とまぁ懐かしさ半分ではあるんだが、なんかすごい良くって、実は「TATTOO[刺青]あり」は初公開以来、一度も観ておらず、今回見直そうかどうか。とりあえず「襲られた女」は観ねばなるまい。

 

 

朝霧友香。泣ける。

 

  

山地美貴。泣ける。

 

 

『ドキュメントポルノ 舌技に泣く』

1981年(S56)/現代映像企画/カラー/65分

■監督:高橋伴明/脚本:宮田諭/撮影:長田勇市/音楽:しっきよしかず

■出演:朝霧友香、下元史朗、沢田多絵、忍海よしこ、宮田諭、楠正道、大杉漣(声のみ)

 

『歓びの喘ぎ 処女を襲う』

1981年(S56)/高橋プロダクション/カラー/62分

■監督、脚本:高橋伴明/撮影:長田勇市/音楽:しっきよしかず

■出演:下元史朗、山地美貴、今泉洋、忍海よしこ、水月円、宮田諭、井上雅之

 

『夜の罠』

原作がウールリッチ「黒い天使」だってんで、ちょっと無理して観に行ったんだが、途中で観ていたことを思い出した。

そういう映画は結構あるし、今年の初め、今井正『白い崖』(こちらもアイラ・レヴィン『死の接吻』が原作という触れ込みなんだが、菊島隆三がちょっとパクったオリジナル)でも同じ思いをしたのだが、つまり、観てたのを忘れちゃうほどに凡庸、つまらないと声高に言うほどのこともなく普通。

 

怖そげな芝居と照明と手持ちカメラでおどろおどろしさを演出しときゃええやろ、ってのがまずダメだし、監禁された若尾文子が逃げようとするあたりの細かなサスペンスはただもたもたしてる。サスペンスってのはそういうことじゃないんだよ壮吉。

全体的に石井輝男の地帯シリーズに似てるんだが、冗長な上に泥臭い。

 

ただ山谷のセット(まさか若尾文子を連れてロケしたわけじゃないだろ)とエキストラがなかなかで、このシーンだけは悪くないし、若尾文子がいつもの役どころじゃないからか、なかなか体当たりな演技(無鉄砲なだけという気もするが)を見せてくれるのも嬉しい。それだけに、水責めに遭うあややのアップをちゃんと押さえんかい壮吉、となんか勿体無い。

 

ちなみにハリウッドでの映画化、ロイ・ウィリアム・ニール監督『Black Angel』はラストにちょっとしたトリックが炸裂する傑作なので、ミステリファンは観た方がいいです。本作も最後にとんでもトリックが出てきたりするんだが、こっちは単なるとんでも。

もひとつちなみに本作のクレジットが「コーネル・ウーリッチ」原作になってた気がする。

 

こういうスチールを観ると、いかにもノワールなんだけどね。

 

 

『夜の罠』

1967年(S42)/大映東京/白黒/86分

■監督:富本壮吉/原作:コーネル・ウールリッチ/脚本:舟橋和郎/撮影:小原譲治/美術:間野重雄/音楽:池野成

■出演:若尾文子、船越英二、南原宏治、高橋昌也、成瀬昌彦、早川雄三、上野山功一、仲村隆

 

 

ラピュタ阿佐ヶ谷ではなく有楽町の若尾文子映画祭で。客層が微妙に違ってるのがおかしい。微妙に若いし、なんつうか、普通の人多め。

それはともかく。

 

『螢の光』

初見。

山田宏一と山根貞雄のインタビュー本「森一生 映画旅」が出版されたのが1989年で、以来、森一生は(時代は前後するが)三隅、池広一夫、田中徳三と並ぶ面白い職人監督として遇されるようになったわけだが、しょーじき、三隅、池広と比べると当たり外れの差が激しい人ではある。

 

勝新太郎は勝プロでのTV作品に森一生を招きながらも「一緒に仕事やってて嬉しいのは森先生ね、そのかわり撮り終わって、試写見て、がっかりするのも森先生」なんて言ってるのだが、本作はがっかりな方の森先生。

何も考えずにルーティンで撮ってるし、途中で話が変になっちゃうし、尺も中途半端に短いし、結構困った作でありました。

 

見どころは潮万太郎と、伊福部サウンドにのせて若尾文子がレオタード姿で踊る(わずか)2カット。

ちなみに、やけに化粧の濃い女子高校生は八潮悠子と矢島ひろ子で、「青空娘」にも出てます。

 

以下、ちょっと面白いブログ。

 

 

 

 

『青空娘』

観るのは三回目くらいだが、増村を久々に観た気がする。つってもいかにもな増村ではない、初期の軽めの増村なのはご存知の通り。

 

有名かつ痛快な卓球シーンと、ミヤコ蝶々の関西弁が抜群にスピーディーなのはともかく、なんだか後半になって失速するし(特に収まり方が)理屈っぽいので、世評は高いが、んなにいいかぁ?と初めて観た時からそう思う。若尾文子と川崎敬三が結婚する結末に納得いかないせいもある。菅原謙二にもっと頑張って欲しかった。てゆーか、そもそも私は増村保造がそんなに好きではない。

 

田宮二郎が(多分)1カットのみ出演してるのを忘れていました。台詞あったんだね。

それと今回4K版だけあって、無茶苦茶にきれい。でも増村って、もちょっと彩度を上げてコントラストきつめな感じがする。

 

というか、『暖流』にしろ、50年代の大映のカラーがホワッとした色調、人物を際立たせない緩い色調で、60年代に入ると同じ増村でも『刺青』や川島雄三の大映カラー2作など、彩度の上がったパキッとした色調となり、70年代前後にはドキュメンタリー風の、悪く言えばビデオ撮り風な色調になるように思うのだが、このルックの違いは何なのだろう。多分、フィルム自体が違うと思うのだが、どなたか教えていただけないだろうか。

 

ミヤコ蝶々はいつ観てもミヤコ蝶々である。

 

 

『螢の光』

1955年(S30)/大映東京/カラー/76分

■監督:森一生/脚本:笠原良三/撮影:長井信一/美術:高橋康一/音楽:伊福部昭

■出演:若尾文子、菅原謙二、市川和子、矢島ひろ子、潮万太郎、船越英二

 

『青空娘』

1957年(S32)/大映東京/カラー/88分

■監督:増村保造/脚本:白坂依志夫/原作:源氏鶏太/撮影:高橋通夫/美術:柴田篤二/音楽:小杉太一郎 

■出演:若尾文子、川崎敬三、菅原謙二、東山千栄子、沢村貞子

『雁』

若尾文子と女中・姿美千子が住む妾宅は坂の途中にあり、坂の下には祠、坂の上は緩く左にカーブしていてその先は見えない。この家が主な舞台となる。

 

若尾文子と正妻・山岡久乃がすれ違う雨のシーンがいい。

二人は傘をさし、妾は坂の下から正妻は坂の上から歩いてきて、傘が同じ柄であることから、互いの素性を知ることとなる。二つの傘が水平ではなく、上下に重なる「坂」の効果。

 

さらにラストショットでこの妾宅が鳥籠の隠喩であることがはっきりとわかるのだが、そこでもカメラ奥へと緩やかに登る坂が素晴らしい。玄関先からこぼれる光が坂の途中で立ち止まる若尾文子を逆行気味に捉え、やがて彼女は鳥籠の中へ、暗闇へと消えていく。

 

でも映画の出来はまぁまぁ。どうすりゃよかったんだろう。

 

 

 

『処女が見た』

こちらは再見。といっても、面白いからも一回観たわけではなく、たまたま。そう面白かない。

エロ劇画みたいな話だし、最後はみんな不幸になっちゃうという、こんなの誰が観たがるんだよと思うし、こんなの撮りたいかぁと思う。

まーエロ狙いだったんだろうが、三隅研次と牧浦地志は、何だろう、ロケーション以外に興味あらへんわ、みたいな感じで、気合が入ってんだか入ってないんだか。

 

でも、若尾文子のかなりなどアップ(シーンによってはニキビあり)と、エロ坊主・城健三朗に初めて声をかける安田道代のフルショット、エレキで弾けるゴーゴーショットが結構イカすので観る価値はあります。

 

でもなんだな、池広一夫と三隅を続けて観て思うんだけど、三隅研次ってアップおしだし、意外と技巧的なのな。むしろ池広の方が古典的。そんな感じがあんまりしないんだけど、アップ、ロングの使い方がちょっと変、というか古典をズラしてる感が強い。

 

あと面白いのは、現代風俗を無理くり入れてるとこ。

前述した安田道代のゴーゴーショットもいいが、エレキに目を回す若尾文子がいい。

「私、エレキみたいなもん観ぃしまへんさかい」と若尾文子の台詞の後、いきなりエレキ選手権会場のあやや。爆笑してたジジイがいました。わからんでもない。

あと、城健三朗のベレー帽な。

 

 

映画は大映。女優は若尾。

 

 

『雁』(がん)

1966年(S41)/大映東京/白黒/87分

■監督:池広一夫/原作:森鷗外/脚本:成澤昌茂/撮影:宗川信夫/美術:仲美喜雄/音楽:池野成
■出演:若尾文子、山本学、小沢栄太郎、姿美千子、山岡久乃、水戸光子、藤原礼子、井川比佐志

 

『処女が見た』

1966年(S41)/大映京都/白黒/84分

■監督:三隅研次/脚本:舟橋和郎、小滝光郎/撮影:牧浦地志/美術:下石坂成典/音楽:小杉太一郎
■出演:若尾文子、安田道代、城健三朗、小夜福子、内田朝雄、小柳徹、伊達三郎、若杉曜子

 

 

『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』 あるいは、私には何もできることがない

 

同ポジつなぎやスローモーションや意味なくカット割ったり、『女めくら物語』を堪能した初老の男には随分酷な画面が続くのだが、萩原利久と河合優実が知り合い会話を交わすあたりからどんどん良くなってくる。

いかにも今どきな男女の会話が楽しいし、河合優実の関西弁、そのリズムがいい。知り合ったばかりのぎこちない感じ、次第に打ち解ける二人の役者の自然な雰囲気が素晴らしい。

こんな二人がいれば、どう撮ろうが関係ない。なんなら1カットでいい、と『肉体の盛装』の端正なカッティングに魅了された初老の男はしかしそう思う。

 

黒沢清は「ひとたび「ヨーイ、はい」と言いカメラが回ってしまったら、映画監督にはもうすることがない」とどこかに書いていた。

もちろんカメラが回る直前まで映画監督は忙しい。カメラマンにあれこれ言ってカメラをあそこに置いて構図を作って、その中で適切な照明を作ってもらわないといけない。役者にもいろいろ動きの指示を出す、時には登場人物の気持ちは、なんて面倒臭いことも言わなければならぬ。

ところが「ヨーイ、はい」と言ってしまったら、役者は好き勝手に喋ったり動いたりしても一向に構わない。役者の自由に任せる他ない。自分の意に沿わない芝居をしたら、も一回撮ることになるのだろうが、それでもカメラが回っている時間は役者たちのものだ。

 

そして映画は、シンプルなボーイ・ミーツ・ガールと、萩原くんのバイト仲間・伊東蒼のいたたまれない告白シーンを挟んで、かなりな局面を迎える。この唐突な物語の転換を描くに際し、大九明子はえらく悩んだに違いない。

小うるさい観客がこの転換を素直に受け入れるだろうか、なんだ御涙頂戴かよとか、安易な作劇だなとか、素直で楽しい青春ものでいいじゃんとか(私も最初はそう思った)言われるに違いない。どうしよう、どうしようと。しかしお話はもう決まっているし、原作は私じゃないけど、原作を映画化しようと思ったのは私だし、なんなら私が脚本を書いた、この難局を選んだのは私だ。

 

で彼女はどうしたか。

 

 

 

「話のツジツマを合わせるのは役者の方だ」と鈴木清順は小林信彦に語った。

 

そう、萩原利久と河合優実に任せてしまったのだ。というか、そうするしか方法がない。

小うるさい観客に四の五の言わせないために、できれば観客を泣かせたり感動させたいから、とにかくセリフを練り、二人の芝居をしっかり整え、カメラを準備し照明を配し、撮り終えたら適切に編集をしよう、でも一番肝心なとこは役者二人に任せるしかない。

 

逆に言えば、役者の力を信頼する脚本を大九明子は用意したのだ。ここは役者に頑張ってもらうしかない、その覚悟に映画を賭ける。

そして結果、河合優実は愛する者を失うことの悲しみと恐怖を、萩原利久はそれに対する者の無力とささやかな希望を見事に示す。

 

何もできない者たち

 

 

縁側に座る河合優実の長いセリフを1カットで撮る。途中で急激なズームアップが入る。

大九明子は多分、撮ってる途中で「もっと寄って」とカメラマンに囁いたのだ。カメラマンは驚き、彼女はもっとアップにしなかったことを後悔したのかもしれない。でも例えばバックショットは押さえてるから、編集でそれをインサートすればいい、大九明子はとりあえずそう考える。

 

しかし、いやいやここは1ショットだ、と彼女は翻意する。

私は河合優実の表情を見つめていたい、もっとアップで見つめていたい。しかも芝居はこのテイクが最もいい。あるいはこのテイクしか撮っていない。

 

急激なズームはいかにも不細工だし、これを映画に残さざるを得なかったのは私の失敗だ。そんなことわかってる(大阪弁で)、そんでもここは1ショットでいくねん、優実ちゃんは1ショットでどアップでいくねん、それがウチのできる唯一のことや、覚悟決めてんねん、やかましわ、と。

その決意と覚悟と勇気、そして大九明子の信頼に応えた二人に涙が出る。素晴らしい。

 

優実ちゃんはどアップでいくねん

 

 

『新世紀ロマンティクス』 昔の名前で出ています

 

 

賈樟柯、ジャ・ジャンクーの新作。

前作「帰れない二人」が2018年公開で、7年ぶりの新作となるのだが、あまり前評判も聞かず、オリヴェイラ特集で予告編を観なかったら、見逃すところだった。

私が情弱なだけなのか、本作の評判がよろしくないのだろうか。

なんだかジャンクー、もう昔の人のようだ。

例えば、レオス・カラックスはもっと寡作なはずなのに、その新作は話題になる。「アネット」なんてほぼ10年ぶりだったくせに、やけにみんな騒いでた。

 

昔の人、ジャンクー。1970年生まれだから、現在55歳。

私が初めてジャ・ジャンクーの映画を観たのは2000年、桜丘にあった渋谷ユーロスペースで「プラットホーム」を観たのだった。

その時感じたのは、後に判明する彼のドキュメンタリー的な資質ではなく、むしろ「演出」への信頼であったように思う。

完璧な構図と役者の立ち位置、動き、見事なロケーションと時制のコントロール、つまりこの過剰なまでの「演出」は、当時の例えば侯孝賢やエドワード・ヤンにはなかったものだった。

 

「プラットホーム」のチャオ・タオ

 

 

以来、私にとってジャ・ジャンクーは、過度なまでに叙情的な物語を語り、冴えまくるショットを撮る人としてあった。そしてそれらショットは、そのショットが意味する以上の広がりをみせてくれる人、であった。

だから続く「青の稲妻」「世界」「長江哀歌」にはがっかりしたし、「四川のうた」と「罪の手ざわり」は私にとってのジャ・ジャンクーの復活だった。

 

確かに「四川のうた」は架空の人々とはいえ、さまざまな人へのインタビューで構成されている、いわばフェイク・ドキュメンタリーとしてある。

しかし、チャオ・タオは女優としてではなく、工場で働くキャリアウーマンとして登場し、あくまでも物語上の人物としての母親の思い出を語るのだ。そして薄暮に撮影された彼女の表情は、時が経つにつれてゆっくりと闇に沈んでいく。

これだ。これが私にとってのジャ・ジャンクーだ。ジャ・ジャンクーは泣けんだよ、と庭に鳴く虫にまで知らせたいくらいだ。

 

「四川のうた」のチャオ・タオ

 

 

あの素晴らしい「プラットホーム」から25年が経った。

私も老けたが、ジャンクーも歳をとった。なんだか涙もろくなったか、ジャンクー。

本作は正直、かなり甘い。

これまで以上に臆面もないメロドラマだ。こんなんでいいのかくらいに甘い。

 

30年前に撮られた女性たちが登場する。彼女たちは30年前の中国の人だから、垢抜けない服を着て、垢抜けない歌を歌う。多分、彼女たちは俺と同じくらいの歳だ。彼女たちは今何をしているのかと思うと泣けてくる。

これはそういう映画だ。そういう甘っちょろい映画だ。

 

昔のチャオ・タオも出てくる。昔のチャオ・タオがチャオ・タオとして登場する映画の不思議。しかしジャンクーはそんなメタ映画的な方へ寄り道をせず、ただ、懐かしいねとか、変わんないじゃんとか、どうしてたの?今何してる?とだけ問い続ける。

過去と現在について問い続けること。

 

重慶の寒々しい広場では、「プラットホーム」みたいな連中が今なお演奏を続けている。

チャオ・タオの恋人は脳梗塞の後遺症なのか足を引き摺っている。チャオ・タオも確かに老けた。

しかし彼女は美しいままそこにいる。彼女は25年前と同じように上着をかざして雨を避け、ロボットに笑顔をみせる。

マスクをした二人の再会が甘い。マスクという設定がなんだかズルい。

しかし泣ける。素晴らしく泣ける。

 

泣ける。