小学校の学校の事は今までのよう

家での生活も色々な出来事があった

ずっと発作が続き寝込んでいる生活は

時々 びっくりする事が起きる筋肉の衰え?なのか

ある日 少し良くなった日お手洗いへ行こうとすると

脚に力が入らなくて立てなくなった

ハイハイでお手洗いまで行くも

帰りは なんとか立てた薬の副作用なのか

これは 今だ謎

突然 耳が聞こえなくなったり声が出なくなった

ただ 最近も同じ事があったもしかしたら 

この時期から私は 他の病気もあったのかよくは 解らないでも その頃はほんの一時のもので母や父は 

知らないというか 気付く事もなかった

低学年の時は父も母も 仲が良かったように見えたのか

本当にそうなのかは2人しか解らないけれど

私には そう見えた 

小学校1年生の時祖父と祖母が宝塚へ連れて行ってくれたのも

今でも その光景は鮮明に覚えている

舞台では それはそれは素敵なお姫様や 

かっこいい男役さんがあちこちに

たちまち 宝塚ファンに

あのお姫様ドレスにはまった

祖父は 昔から祖父の姉の護衛のように宝塚に観劇に行っていたらしい

祖父は 私にとっての1番の紳士

寡黙だけれど とっても優しい人

厳しいけれど 愛情がある人だった

その頃から月に1度の観劇が楽しみだった

ただ 発作が起きると行けない

そんな時は 大泣きして 母を困らせた

観劇の後祖父母のお家にお泊りも本当に嬉しかった

ちょっとした小旅行のようだった

高学年になると父の仕事が 大阪から広島へ転勤になる事にようやく 学校生活になれたけれど

私は 転校してもそんなに変わらない

そもそも 親しいお友達と呼べる人がいなかった

兄は5歳上高学年の頃には高校生になりかけの頃

私の母は子供の頃 転校が多かった

だからなのか転校には 抵抗もあったよう

兄がどうだったかはよく解らないけれど

あまり賛成ではなかった

私と違い兄は 沢山お友達がいた

ボーイスカウトの仲間が近所に沢山いた

キャンプや奉仕活動などで信頼関係は密だった

近所の子供の勉強も家庭教師ではないが 見てあげていた

私も 元気な時は遊んでもらった覚えがある

近所では 病弱な子という認知の私

激しい遊びではなく積み木や お散歩など軽い遊びだった色々 相談した結果なのか

父が1人 単身赴任となった

その頃 単身赴任が多くなっていた時期

二重生活は大変だろうと思うけれど

兄の事を考えるとそれが1番の選択だと思う

大切な友達と離れるのは

親としては その選択を私でもすると思う

父が広島へ行き時々 母が掃除や身の回りの事をしに行く

それだけでも出費は結構な物

母は 内職をしだした始めた 

神社のお守り作り

私も手伝えるようなお守り楽しかった思い出があるけれど 1個 数銭の物数を作らないと 大変だった

しばらくして誰かの紹介で着物の染めの下地作りを始めた

1反作ると結構なお値段がもらえるが

失敗すると 弁償という集中力が必要な仕事

始めは側によるだけで怒られたが

慣れてくると側で見ている事を許された

綺麗な柄が 沢山書かれた反物は

それは素敵に見えた染める範囲に ゴムのような物で絵をなぞる

他の所に 染料が流れない為そこに糊をつけて おがくずを振りかける

これが 何故なのかはちびっ子だったため 覚えていない

その工程も面白かった着物が出来上がる前を見れるなんて

そんな機会は 滅多にない

段々と複雑な図柄になりその絵を見ているだけでも楽しかった

そうしているうちに祖父が倒れるという事がおこった

祖父から 始めてもらった 毬藻を

毎日 飽きもせず眺めていたある夜

このお話は不思議なので受け付けない人もいるだろうけれどテレビに 観音様のような物陰が映った途端

母に おじいちゃんに電話してとせがった

何故?と聞かれると解らない 毬藻の事聞きたいのととっさに出た言葉だった

あまりに せがむものだから仕方なく 電話をかけると

今しがた 祖父が倒れたと

祖母も不思議な体験をした祖父が倒れた直後白い雲のような物が 

床の間の所から 天井に上がったと

とにかく 直後だったので救急車の手配や母や祖母は連絡が取れて取り乱す事なく行動が出来たらしい

祖父は 脳血栓?だったが早かったので 一命はとりとめたこの頃から大阪へ行ったり 広島へ行ったり母は 大忙しその中 着物の内職てんてこ舞いだっただろう

その分私達は 自由にあれこれ小言を聞かずに

のんびり遊ぶ事が出来た

犬を 家に連れ込んでこそこそ遊ぼうとバレる事もなかったけれどこの時から色々な事が崩れる始まりに私は 家庭生活の中に色々な体験をした