平成15年1月31日発行
横浜日野高校PTA会報90号(最終号)
                                    
     時の流れの中で ~スクラップ&ビルドの人生~   
         
 昭和39年、県は定時制課程を3校に新設。
 時は高度経済成長の真っ只中、足りない労働力を補うため農村の中学卒業生が「金の卵」ともてはやされて集団就職列車に乗って都会へ。
 企業の援助もあって定時制高校へ。
私の教員生活は昭和41年、この新設定時制高校から始まる。

 それから11年、目覚しい経済成長の結果、物の豊かな時代を迎える中で人々は高学歴志向へ。
 高校進学率の上昇に合わせ、神奈川県ですでに始められていた『高校百校新設計画』は結果的には県民の希望を踏まえて九十九校が全日制普通科であり、定時制、特に職業科の生徒は激減傾向(この頃、大企業はほとんど中卒を採用しなくなっていた。)

 2校目での仕事は、本県最初の定時制課程の廃止。
 3校目、新設校で七年。
 その後県教委に転勤、生徒急増期に対応した『高校百校新設計画』の最終段階の仕事や技術革新、情報化など、時代の変化に対応した職業科高校の学科改編(従来の学科を廃止し新しい学科に再編・統合する。)の仕事に関わる。
 4校目は女子校、すでに公立の女子校としては地域のニーズを失いつつあったこの学校は連年の定員割れ。
 女子校を廃して共学に、さらに高齢化社会を見越しての県では初の『福祉』に関する「専門コース」を新設。

 転勤、物の豊かさと、都市化の波の中で失われつつあった「人や自然とのふれあい」の場、前述集団就職の青少年の都会での孤立化などを見据えて、昭和42年に設置された『青年の家』へ。
 相模湾の小島、そこには確かにすばらしい自然と人間関係があった。が、バブルの崩壊、県の財政難、そして行政改革、そこでの私の仕事はこの施設の「廃止」。

 そして今、少子化の流れの中で私は横浜日野高校の「廃止」に立ち会う。
 時代の激しい変化の中での輪廻転生、どの「廃止」の時も、「大切なことは、碑を建てることでも、記念誌を作ることでもなく、ここで学び,ここで教えた全ての人々が『ここ』を心に刻み忘れないこと。」だと思い続けて今日に。

 最後になりました。横浜日野高校の37年の歴史に関わってこられた卒業生・保護者の皆様、教職員、地域、そして行政の方々の、今日に至るまでの御厚誼に感謝申しあげますとともに、皆様の今後のより一層の御発展を祈念いたします。


横浜日野高校と、関わった全ての人々の名を深く心に刻んで、新たな時代の更なる要求に応えるべく「横浜南陵高校」への転生に微力ながら力を尽くしたいと思います。

「ありがとうございました。」