この年の新春早々、突如として茶道に興味を持ち始めた。
「な…なんでもいいから、一刻も早く茶道について知りたい!!お茶碗をクルクル回すこと以外に、なんでもいいから!」
人生半ばにして、貪るような知識欲。しかもその世界は、これまで一生関わることは無いだろう(どちらかと言うと苦手)と思っていた、自分と最も対極、かつ天上界を見上げるような敷居の高さである。

なのに、衝動的なこの目覚め……。我ながら理解不能だったが、とにかく本能の赴くままに、早速茶道の学びをスタートさせた。
と言っても、私は熱しやすく冷めやすい。気軽にお教室に通い出すのは、先々先様に対して失礼になりかねないので、まずは本やインターネットで知識を得たり、茶道に嗜みのある友に質問したりして欲を満たしていったのだった。

 

おそらくそれらで得た内容は、「入門~初級レベル程度」のもの。
だがすでに、「お作法や格式の高さ」が自分の性質には向いてない感がハンパない。
なぜなら、私は定型化された動作を畏まって出来ないタイプの人間なのだ。学生時代の全校集会での賞状授与、はたまたお通夜でのお焼香などで、明らかに挙動が不審になるのだ。

……しかし、何故かトキメキはぐんぐんうなぎのぼり。
いよいよ「ナゾの自主稽古」までをも開始することに。
本で作法を確認しながらひとりお菓子をいただいてみたり、茶花※宜しく一輪挿しに庭の草花を入れて風情を愉しんだり、静かな立ち居振る舞いをしてみたり……。
日々何かを目指し、おままごと的にいそしんだのであった。

※茶花(ちゃばな):茶会の際、床の間に飾られる花。技巧的な華道とは異なり、「花は野にある様(千利休)」に自然の趣きのままに投げ入れる)


 


 

そんな戯れの中、たまたま出逢った本で「その道」の高い精神性を知ることとなる。
【茶道と禅はひとつであり、茶道は禅の精神を体現化したもの
「えっ!そうなの!?」私はあっさり驚いた。……が、驚くにはまだ早かった。

と言うのも、別な本によると、かの有名な【一期一会】は、「禅の精神を茶道の心構えとして表した言葉(禅語)」であり、一生に一度しか出逢えない縁といった意味のみならず、どんな慣れ親しんだ状況であってもその瞬間・その人・その状況に心を込める「中今(禅語では而今)※」という生き方に通ずる意味があるとのこと。

※中今(なかいま):過去や未来ではなく、今この瞬間、自分自身の感覚や意識に集中し、全力で生きること

 

また、初めて知った【和敬清寂《わけいせいじゃく》】は、茶道で非常に重要とされている禅語のひとつで、「和=仲良く、敬=お互いに敬いあう、清=目に見えるものだけでなく心も清らかである、寂=動じない落ち着いた静かな心が大切」とのことである。
「うおおぉー!どれも身に着けたいものばかりじゃないか!」
「ああ、茶の湯……なんて素晴らしいんだ!」
真髄に触れ、じーんと震える心。もしかして、やたらときめいたのは、作法や茶花などから“禅の精神”を感じ取っていたのかも知れない。
「お、ならば!」と閃く。その道において、お作法の出来不出来よりも、まずは“茶の心”を感得する事が重要なのでは?感得しさえすれば、お作法もスムーズに習得できるのでは?
「だったら、私でも望みはあるかも!」
鼻息を荒くした私は、心の鍛錬に重きを置きつつ、ますます自学自習に励んだのだった。

脳に衝撃が走った。そうなのだ。2011年から始まった怒涛の「人生の大暗黒期(自己変革期)」の中で、己と向き合い、壮絶な死闘を繰り広げたり和解したりした結果、ちょうどそれらの精神世界へベクトルが向き始めていたのだ。



そんなある日。地元の大型書店にて「茶会における客の作法」に関する本を探した。
良さそうな本は何冊かあり、読み比べていると、少し離れた背後で「ガラガラガラ!」「ゴツンゴツン!」とけたたましい音がした。

静かな空間に大きく響き渡らせながら、徐々に近づいて来るその音……。
なんと、すぐ左背後でピタリと停止した。
『何だろう……』
チラと確認すると、「音の主」はシルバーのラメ入りツイードスーツを着用した40代前半位の女性で、「音源」は小さなキャリーケースとヒールの靴であった。

で、まさかとは思ったのだが、女性はこの茶道本コーナーに用がある模様。
しかも、まっしぐらだった音の軌跡からすると、並々ならぬ緊急の用がありそうだ。
……などと思った瞬間、私は背中にものすごいソワソワとした気の波動を感じた。
そしてその“気”は、私のすぐ前方の書棚を見たそうな圧も放って来たので、一歩右にずれた。

間髪入れず、いかにも邪魔くさそうに割り入る女性。
ガサゴソとせわしなく本を物色した後、何冊かの本をしばし熱心に読み始めた。

途中、彼女が読んでいる本から、スリップ(二股短冊型の紙)がひらりと私の足元に落ちた。
……私は完全にスルーした。
いや、いつもなら拾って渡すが、この時はどうしても拾いたくなかったので、素知らぬ振りを決め込んだ。(←私も私で、茶の心を学ぼうとしているにもかかわらず、底意地が悪いのだった😅)

そんな微動だしない私に、ジロリと視線を投げる彼女。
面倒くさそうにかがんでスリップを拾い上げると、再び私の横顔をギロリ。
『う~ん……』
まあ予想通りの展開であったが、これでは落ち着いて本が選べない。
一旦他の書棚へ避難して仕切り直すことにした。

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しばらくして戻ると、女性は尚も本を熟読しておられた。
……が、こっちもそうのんびりしていられない。不躾ながら、横からスッと手を伸ばし、彼女の眼前の書棚から本を引き抜いた。

案の定『また来た!』とばかりに、私が手にした本を睨みつける彼女。
しかし、少しするとタイムアップとなったのか、ガタゴトと慌ただしく本を書棚に戻し、再び「ガラガラガラ!(←キャリーケース音)、ゴツンゴツン!(←ヒール音)」と賑やかな音を立ててご退場された。

ひとり残った私。どうしても気になることがあった。
「あんなに急いで、おまけにあんなに集中して読まなければならなかった本って、一体……?」
そこで、これまた不躾ながら、彼女が雑に戻して斜めにはみ出ている本のタイトルを確認させていただくと、「お茶席での会話集」といった内容のものであることが判明した。

「………!」
衝撃が私を襲った。……だっておい!お茶席で「会話が出来る立場」と言えば、亭主か正客※。そのどちらも会の要《かなめ》であり、熟練者が務めるのである。
つまり彼女は、かなり経験を積まれた方なのだ……。

※正客(しょうきゃく):本来「一客一亭主」が原則の茶会において、最上位の客。一番上座に座り、客を代表して亭主と挨拶や問答を交わす。正客以外を相伴客と言い、原則亭主とは話せない)

 

『こ、これが茶人の現実……!?』
情熱がわずかに冷めかけた……。と同時に、ある言葉を思い出し、ハッとする。
「ヨガのポーズがいくら完璧にとれたとしても、そもそもヨガの精神(ヨガ哲学)を理解していなければ何の意味もないからね!」
それは、週1で通っているヨガ教室(初級)のユーコ先生が、数カ月前に受講者(総勢30名ほど)へ向け、放ったもの。失礼ながら、8割ほど聞き流した教訓であった。

……い、いや確かに、ヨガ哲学には詳しくなかった。
けれど、それまで自分なりに様々な思想やヒーリングをざっくりと学び、ひとつの結論に至っていたのだ。
「世にある教えは、結局殆どが同じ一つの真理を伝えている。だから、どの教えを選択したとしても、恒久的な心の幸せを得るには、全くもって自分の意識や思考次第」
なので即座に、
「(ヨガ哲学などの)座学はもうお腹いっぱい。あとは自分次第だから学ぶ必要はないかな……」
と、さして気に留めなかったのだ。

そこへ来て、ラメスーツ女性とのこの流れ。考えは一変したのである。
「ヨガを極めるつもりはなくても、習っている以上、ある程度は知っておくべきではないのか?学んでもいないのに知った気になるのは、自分の成長の芽を摘むばかりではないのか?」
私はユーコ先生にヨガ哲学を教わるため、プライベートレッスンに申し込むことを即決した。
思考に新鮮な風がスーッと舞い込んだ気がした。

おそらくここまでの衝撃を受けなかったら、慢心と言う名の思い込みは外せなかったであろう。
そういった意味では、この役割を「私の人生劇場」で担って下さった女性に感謝。そして、この出逢いにも感謝なのであった。

こうまでして導かれたヨガ哲学は、きっと私をより深めてくれるであろう。

 



 


余談その1:茶道の教えもうひとつ 

侘び茶※の祖である村田珠光の教えに、こういった言葉がある。
「所作は自然と目に立ち候はぬ様に有るべし」
意味は「動作は自然に目立たないようにするべきである」である。
なんとも茶の湯らしい、奥ゆかしさに溢れた教えだ。
ラメの彼女はすでにご存じかもしれないが、私も茶の湯を志すならば心しておくことにする。

※侘び茶:単に愉しむだけだった華美な茶会を、質実かつ敬と礼を重んじ、精神性の追求の場にまで落とし込んだ茶の道。

 

 


余談その2:作法と精神の連動性

辞書で「作法」を調べたところ、「人間が気持ちよく生活していくための知恵」とのことであった。
と言うことは、もしかしたら茶道の作法を極めることからアプローチしても、禅の心を得ることが出来るかもしれない、という事も書き加えておく。
まあでも、何ごとも愛がなければ真には成立しない気がする。

 

余談その3:ヨガ哲学を学んだ結果

ラメスーツ女性との出逢いから間もなく、私は決意どおりユーコ先生からヨガ哲学を2回学んだ。
とは言え、おそらくそれらは全容のごく一部。
けれど、私にとって最難関であった心のブロックを強力に解除してくれたのだった。

とりわけ作用したのが、初日に先生がとっかかりとして引用された、インドの叙事詩「バガヴァッドギーター」
神クリシュナ王子アルジュナの対話から成る壮大な物語である。

ただし、引用されたのはほんの一部。
【親族や兄弟とまで戦わなければならない極限状態で悩むアルジュナに、馬車の御者に扮した神クリシュナが、「躊躇いや欲望を捨て、人として現世の義務を遂行するために戦え。無心で成すべきことをなし、その結果に執着しなければ心は平穏になる」と説く】と言う内容だった。

で、今思えばものの例えだと思えるのだが、当時周囲の平穏を願い、なんとか愛を以て対処しようとしていた私には、甚だショッキングな内容。
『平穏を望んでいるのになぜ戦うのか!?なんでこれが哲学なのか!?』
全てが理解できず、物語の不条理に涙した。
そして、感情の矛先は先生にも。
『先生ってば、なんでこんなことを教えるんだろう。なんで!?👿』

このような衝撃と共に、クリシュナとアルジュナのワンシーンは悶々と記憶に残り続けた。
そしたらその後、コロナ騒動で制限のある暮らしがスタート。
と当時に、雪崩の如く身体可動域が狭まる事態(足首靭帯裂断→爪ごと指先スライス→一時的に視界が半分見えなくなる→肩腱板の裂断など)を経験し、自分を守りながら必死に暮らす中で、気づいたのだ。
「いかに自分がやらなくてもいいことを、なんとなくやってしまっていたか」
……そう、「平穏でいたい」という“欲”のために、自分軸を曲げて動いていたのだ。
全くもって真理に反していたことをしていたのである。

それから私は、自分が本当にやるべきことだけに集中することにした。
邪魔するものは戦いも辞さないと思う程に。
すると、自主的に背負っていた心の重荷は、どんどん軽くなっていったのである。

ここまで辿り着くのに、ちょうど1年。
ようやく腹落ちした私は、なんとも言えぬ感動に包まれた。
レッスンでのわだかまりが全て溶け、あの時と違う涙が勝手にごうごうと流れた。
おそらく最初にひどい拒否反応を起こしたのは、潜在意識が最も変化を恐れた部分だったからであろう。要するに、私が最も変わらなければならない部分だったのだ。

ユーコ先生からヨガ哲学を学んで本当によかった。感謝しかない。
そして、ここまで導いて下さったのは、紛れもなくあの時のラメなスーツの女性だったのである(合掌)。

 

 

 


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