ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

『ベルジャーエフ著作集 第4巻:創造の意味』(行路社発行)より

 「第4章:創造と認識論」

 

 

 ここでの問題、創造と認識との関係を理解することは、そう難しいことではないと思われるので、テキストの引用を中心にしてエッセンスを捉えていきたい。

 

(テキスト)p.136

創造的行為は直接的に実在の内にある。それは実在の力の自己開示である。

 

 これは当たり前のことでありながら、大変重要である。創造運動は直接に実在の内にあって、実在そのものの自己開示だというのである。

 創造は実在の自己開示である。そしてその創造的行為は、人間によってなされる。だとすれば、学的な認識、学的な哲学は創造的ではない。なぜなら、それは常に「〜〜について」の研究だからである。「内村鑑三の思想について」「フッサールの現象について」「スピノザの神認識について」などなど。それらが実在を開示するのは至難ではなかろうか。

 

 では、ここでわたしが行なっている「ベルジャーエフの創造論」論考は、創造的行為として成り立つのだろうか。もし成り立っていなければ、この作業はナンセンスである。

 

 では、成り立つためには何が必要であろうか? それは、実在を創造的に明らかに示しているベルジャーエフと、それを受け止めようとする管理人とが、同じ実在の内に存在していること、生きる方向、向かっていく方向が同じものを見ていることが要求される。そうでなければこの作業は、単なる論考の解説か説明であり、生きている今の精神の限界を突破して新たな道を開く、創造的なものにはなり得ない。

 

 では、探求に必要な、共通の「実在の内」とは何でなければならないだろうか。それは、ベルジャーエフの地平である「絶対的人間にして神であるキリスト」に、共に立っていると言えるかどうか、ということである。その位置から全くズレなく、この「創造と認識論」の問題を明らかにしようとしているかどうか、という問題である。

 まずは問題の提示者であるベルジャーエフが、絶対的人間キリストをそのように自覚し、それを基盤に立っているのは当たり前として、管理人はどうするのか。管理人には何が求められるのか。

 

 それは、ベルジャーエフがこの問題を開示しようとしたそのエネルギー、その情熱、その必然性が、管理人に乗り移っているかどうか、という問題である。乗り移って来るほどに、向かう方向への思いが同じでなければならない。ベルジャーエフが解明した生命のエネルギーが管理人に乗り移って来なければ、しょせん単なる研究者が自分のために研究を発表するだけの解説の域を出れない。単にベルジャーエフの思想の解説に終わるだけである。「我は道なり」と言われた、この現代社会の現実が抱える精神作用の限界を超えた、イエスの天上の生命を見つけ出すことはできない。

 

 

(テキスト:続き)

創造的行為は他を正当化するのであって、他から正当化されるのではなく、自分で自分を根拠づけるのであって、自らの外なる何ものかによって根拠づけられることを求めない。

 

創造的存在としての人間の自己意識とは、根源的なものであって、派生的なものではない。人間は、自らの内なる創造的行為の意識から出発すべきであり、これは人間の内なる革命的意識であって、論理の道によっても進化の道によってもこれに到達することはできない。

 

 創造的行為は他から正当づけられたり、根拠づけられるものであってはならない。「他」とは「社会」であり「学」である。あるいは、「創造的行為でないもの」である。それらによって根拠づけられるとすれば、創造的行為もまた現代の精神作用の限界を突破することはできない。それは「順応行為」であって、創造的行為ではない。

 

 しかも、これは「進化の道」であってはならない。進化は「延長線上の発展」であって、根源的変化、根源的な限界の突破にはならない。ゆえに、創造的行為は、創造的行為自身の自覚の内から生まれて来るものでなければならない。他に促されたり、他に示唆されたり、他から派生するものであってはならない。

 

 創造的行為は革命的である。それは、現在の条件づけられた精神的限界を、根源から突破するものを言うからである。それゆえ、それは絶対的人間キリストの実在的生命と結びついていなければならない。

 

 

(テキスト:続き)

創造者としての人間の自己意識は、人間に関する何らかの学説の結果ではない。それはあらゆる学に、あらゆる哲学に先行する。つまり、あらゆる認識論に先行する。人間の創造的行為が成就するのは、学の権限が及ばない実在の次元においてであり、それゆえ学的認識論が何ら関わりを有しない次元においてである。創造者としての人間の自己意識を認識論の上から正当化したり、認識論の上から否定したりすることは、いずれも不可能にして場違いである。

 

宗教的体験としての創造は(*霊的創造のことーー管理人)、主体と客体への二元論的分割を知らない(*例えば、主体としてはこのようにしたいが、社会的な評価や商品化したときの売れ行きを考えると、このように変える、というような主客分離のことーー管理人)。

 

 

 

*ベルジャーエフの テキストとして使用するのは、行路社刊『ベルジャーエフ著作集第4巻 創造の意味』 青山太郎 訳からです。

 

創造と贖(あがな)い

(「意識の変容」から「存在の変容」へ)

 

(テキスト)p.112

“世界史の新たな時代に生きる人間の宗教意識にとって、出口は1つしかない。すなわち、新約のキリスト教が完全にして最終的な宗教的真理ではないことを、新たな宗教的真理として意識化することである。

 

新約のキリスト教は贖いの宗教であり、罪からの救いについての福音であり、聖三位一体の第二位格である神の子の啓示、世界の罪のために苦しむ神の啓示である。

 

贖罪とは、世界の神秘的生を構成する諸々の時代のひとつ、世界過程の基礎にすぎない。”

 

 これはベルジャーエフの根本的な問題の指摘だが、しかし、彼は贖いの宗教であるキリスト教を否定するわけではない。それは最終的な宗教的真理なのではなく、宗教的真理が歴史的に開示されて行く、世界過程なのだ、その世界過程の基礎であることを新たに意識化する必要があると言う。

 

 贖いを必要とする世界過程は悲劇的だが、この悲劇は、旧きアダムの力によって解消されることはない。旧きアダムの自由は損なわれている、と説く。新たなアダムが現れ、人間の自由を再興しなければならないと彼は言う。

 

 わたしたちは、新たな自由、「人間の自由」を知らない。わたしたちが知っているものは、常に「〜〜からの自由」か、「〜〜への自由」である。そうではなく、「人間の自由」という未知なるものがある。それが創造力であり、神に似た人間の力である。そして、われわれはそれを見出し、それを掘り起こし、それを新たに現実の世界で働かせていかなければならない。

 ベルジャーエフの言い方によれば、人間は今も続く神の世界創造の仕事に参画しなけばならないのである。

 

 

 しかし、彼が「贖罪は、世界過程の基礎だ」と言っているように、新たな「創造的宗教的次元」を開示するためには、われわれは「キリストによる贖い」を体験していかなければならない。「贖罪」が神秘的生の世界創造の基礎なのである。これを通過体験しない創造とは、現在すでにありふれている、われわれの欲望のひとつの働きに過ぎない。それらは、いかに意味づけられようとも、ただただ世界の退廃現象を生むだけである。見よ、われわれは毎日、いかに頽落的な芸術と称するものの只中で生きていることか!

 

 

(テキスト)p.113

“新約的・福音書的真理は、キリスト教的真理の内の、贖いと救いを目指す一面にすぎない。そこに人間の創造的諸目的についての端的な正当化を探しても無駄である。福音書には、絶対的人間たるキリストの一面、人間本性を贖い救う一面しか開示されていない。”

“福音書そのものの内に、創造に関する言葉は一語としてない。罪の購いと悪からの救いについての福音も、人類の奥義を開示し、創造への道を指し示すことはできなかった。世界の罪のために自らを犠牲に供する神という、福音書の描くキリストは、未だ人間の創造の奥義を開示していない。

 

人間の創造的活動はその聖書を有しておらず、その道は上から人間に啓示されてはいない。人間への神の意志の啓示である聖書の内に、人間は常に絶対的真実を見出すが、この真実は別の事柄に関する別の真実である。創造に関する限り、人間は言わばひとりぼっちのまま自分だけを頼まねばならず、上からの直接的助力は存在しない。そこにこそ、神の大いなる叡智はあったのである。”

 

 われわれは今、「贖いの宗教的時代」から「聖神の内なる創造的時代」への、過渡期にあると言えるのではなかろうか。宗教を持っていようと無宗教であろうと、世界の戦争や葛藤を終わらせることはできない。それらを超えた、新たな生き方、新たな方向性が開示されていかなければならない。それが「聖神の内なる創造的時代」の到来である。そして、これは必ず、「キリストによる贖い」を基礎として開示されるものである。しかし、それはキリスト教ではない。それは宗教ではないか、あるいは言い方を変えれば、宗教ならざる宗教である。それは、キリストに結びついているといえば宗教であり、ブッダやマハヴィーラ、アッラーなどなど、いかなる他の考え方や体験を否定するものではないといえば、宗教ではない。

 

 ベルジャーエフが言うように、贖いの恵みは人間本性を再興する。キリストに発する贖いの力は、人間の内部へ入る。そしてそれは、聖神(タロットの霊)の内へと出て行き、人間の内部に創造力となって湧出するのである。神人キリストと結びついたわれわれは、人神となって生まれ変わり、神の世界創造に参画するようになる。

 

 先にわたしは、「創造と贖い」(1)において、「贖い」と「創造」とは、聖神を媒介とする縦列的な弁証法的関係にある、と述べた。それは、「贖い」と「創造」との関係には「矛盾」が存在することを意味する。あたかも、「律法」と「贖い」との関係に「矛盾」が存在したのと同様である。そして、「律法」と「贖い」の「矛盾」は、キリストが十字架につくことによって克服されたのである。十字架抜きには、いかなる道を辿ろうと、この矛盾は克服されない。この矛盾は絶対的とも言えるものだからである。「ああ、我悩める人なるかな!」と、この絶対的矛盾を目の当たりにして、使徒パウロは悩んだ。

 その「罪深さ」を前にして、絶対的人間キリストの死と復活によってだけ、「贖い」はこの世界でヴジョンではなく実際のものとして出現し、「世界過程の基礎」になり得たのである。

 

 

 では、「贖い」と「創造」との矛盾は、どのように克服されて行くのであろうか。「贖い」と「創造」との間にも、絶対的とも言える矛盾が存在する。「贖い」がそのまま「創造」になるのなら、事は簡単である。キリスト教の出現によって世界は完成し、「神の国」がこの世界に現れる。「贖い」の延長線上に「創造」がある。新たな世界創造は時間の問題になる。時間がくれば、世界過程に「神の国」は出現する。

 しかし、事はそんな単純ではないことは、自他の世界的現実を見れば明らかである。「贖い」と「創造」には重大な「矛盾」が媒介している。それは弁証法的な関係にある。そしてこの矛盾を克服させるものが、「聖神」の存在と働きである。しかし、これまでにキリスト教に触れてきた人は、それはキリスト教が「聖霊」といって説いてきたところと同じだと言われるかもしれない。しかしそれは、「贖い」と「創造」との間には決定的矛盾があり、それらは弁証法的関係にあることが自覚されているものではない。したがって、「創造」は漠としていてどこにも実際には生まれて来ない。ただ再臨信仰というヴィジョンが存在するだけである。あたかも「律法」の宗教の時代に、「救世主が現れる」というヴィジョンが存在したのと同様である。そのヴィジョンには、「絶対的人間による死と復活」という、実際に起こったことは認識されていなかったのである。

 

 ベルジャーエフの「贖い」と「創造」による矛盾は、どのようにして克服されるのであろうか。ーーーそれは「人神の誕生」による克服である。「人神の誕生」から、新たな世界過程による「創造の時代」が始まって行く。

 では、「人神の誕生」とは何であろうか。

 それは、キリスト教の「回心(コンバーション)体験」のことではない。回心によって人は新しく生まれ変わり「贖い」が実現する、その先に現れる決定的変化のことである。それが「人神」である。先にわたしは、「聖神の内なる創造的時代」と言ってきたが、キリストによって回心を体験した秘儀参入者は、さらに聖神の内に、「人神」として創造的主体に生まれるという、回心後の段階である。それを、ベルジャーエフの言葉を離れて言えば、「意識の変容」から「存在の変容」へという決定的変化である。「存在の変容」は「創造的主体」への変化であり、そのことをベルジャーエフはキリストが神人であるのに対して、「人神」と言っているのである。そして、世界を創造できるのは創造主である神だけであり、創造的主体に生まれ変わった人間が、「神の似姿」である新たなアダムとしてその世界創造に参画して行く。

 

 

(使徒パウロ像:スペイン)

*ベルジャーエフの テキストとして使用するのは、行路社刊『ベルジャーエフ著作集第4巻 創造の意味』 青山太郎 訳からです。

 

 

 ベルジャーエフはすでに前段、「第2章:人間ーーミクロコスモスとマクロコスモス」において、「本当の人間、ミクロコスモスとしての人間ーーー自然の帝王としての人間は、神と神人なくしては存在しない」ことを明らかにした。

 

 そして、近代までにはそのような人間論はまだ把握されてはいなかったが、情欲に囚われた自然的人間の限界を超える、超人への理念をはっきりと指し示した先駆者はニーチェだと語ってきたわけである。ニーチェにとって「人間とは恥であり痛みであり、乗り超えられなければならないものである。人間は人間以上のものに、超人(*神人)に到達せねばならない」と、『ツァラトゥストラ』におけるニーチェの人間論を、ベルジャーエフはまとめている。

 

 

 ニーチェの言う「超人」は、ベルジャーエフでは「神人」という言い方に変わるのだが、神人とはロゴスであり、絶対的人間である。そして、『ヨハネ福音書』によれば、ロゴスは神であり、一切のものはこの方によってできた。できたものでこの方によらずにできたものは、ただの一つもないのである。(『ヨハネ福音書』1章1〜3節)

 

 

 しかし、ニーチェはツァラトゥストラにおいて、人間と人間的なものは彼にとって克服されなければならないものとして行き着いたが、彼は超人への道を知らず、悲劇的な無力の内に滅んだ。ニーチェは、人間が神人の内にのみ、神と合体せる人類の内にのみ保持されるという真理に盲目であった、とベルジャーエフは指摘している。コスモスの内に、自然的必然から人間的自由への転換を起こさなければ止まないわれわれは、ニーチェ以前に戻るのではなく、ニーチェを超えた新たな人間論の奥義、人間の創造的使命の奥義を開示しなければならないのである。

 そして、この人間論の啓示は、創造の奥義と贖いの奥義の関係をいかに解するかと言う問題と、不可分だとベルジャーエフは述べる。

 

 

 

 

 われわれが、創造の奥義をいかに開示しようと、贖いの奥義の絶えざる実践と探求を通しての深まりゆく過程が、無くなるわけではない。それらは一体化や両輪の関係なのではなく、弁証法的な縦列的統合の関係にあるとわたしは捉え、実践している。

 

 

 「贖い」と「創造」との関係は、一体化した両輪だとか、コインの裏表だというような理論は、理屈としてはハッキリしてわかりやすいが、生きるという行動や運動に結びつくことができない。生きることは頭の中に整理し、記憶してわかったつもりになっても意味がない。それは行動につながる、われわれの内面から力強い運動を生み出し続けるものでなければならない。

 

 

 「贖い」と「創造」とは、聖神を媒介とする縦列的な弁証法的関係にある。この関係を弁証法的に捉えることによってだけ、絶え間なくわれわれの人生は深まり、深まるゆえに揺るぎなく強くなっていく。強いものだけが創造的であり、強くないものは自己満足的か、自己慰め的な行動なのである。それらは、次々に行き詰まっていくか、揺らぎ続けて、よどみ続けていくものだ。

 

 

 恥であり、痛みである人間を乗り超えさせる力は、神人からやってくる。したがってわれわれは、神人に結びつく道を見つけ出さなければならない。神人を見出し、神人と結合し、神人の中に生きることは、われわれの贖いと癒しをもたらす。

 

 

 しかし、その段階は、まだ創造的な人間の道ではない。さらにわれわれは、神人の内に新たに生まれ、われわれが人神に変容しなければならない。これからの創造は、聖神を媒介とする神人と人神の協働の営みによって為されるものであり、原初のアダムとイヴの創造を超えられるものは、これだけではなかろうか。そして旧来の創造は、常に転落への危うさを内蔵するものであることを否定できない。

 

 

 これが、「創造の第8日目」という発見なのである。