どーも、言葉の通じない動物に客に見せるほどの芸をさせるというのは、もはや問題にしかならない世の中なのかなぁと思うクズです。うーん、私としては水族館はまあまあ好きで、行った時にイルカのショーなどを見たことはあります。けどショーを見に行っているわけではないから、なくても全然楽しめますね。ましてやわざわざ動物のショーを見に行くということはしないので、それの何が良いのかはわからないんですよね。

まぁでもたくさんの人が見に行っていたから今まで続いてきたわけで、批判よりも必要とされる度合いの方が高ければ残っていくかなぁという感じですかね。個人的にはなくなるべきとも、続けるべきとも思いません。


さて、オフレコとされる場での差別発言が報道され、色々と世間を騒がせていますね。まぁマスコミ側のオフレコと言えど、報道する必要がある内容なら世に出すのが報道の役目というような言い分もわかります。

けどそれをやったら話してもらえなくなりますよ。オフレコの取材なんて受けませんで良いんだから。公式の場で原稿を読み上げるだけのやり取りしかしてもらえなくなる。個人の見解なんか尋ねたって、組織の一員だから組織の見解が私の見解ですなんて言われるだけになってしまう。それで説明が足りないとか騒いだって、そうしたのはそっちでしょとなってしまう。別に公人でなくたって、ルールを守れない人には話したくないじゃないですか。

まぁ、今回書きたいのはオフレコの是非ではなくて、多くの人がニュースを見て思ったであろう「思ってても良いけど口にだすなよ」についてです。

私もそういう風に考える人間です。陰口とか本当に陰に隠してくれるんだったら、いくらでも好きに言ってくれと思うタイプです。でもほとんどの場合、何かしらの拍子に本人の耳に入ってしまうから、隠し通せないなら最初から陰口なんて言うなと思います。


ただ、差別を本当に全くゼロにしたいなら、思うことすら許容しててはいけないと思うんですよね。これは多くの人が経験したことがあると思いますが、誰かを嫌いだと思っていると、ストレートに言葉にしていなくても伝わるものなんですよね。嫌な仕事は雑になったり、無駄に時間がかかったり、そういうこともありますよね。

もう色々な人に使い古されてる、マザー・テレサの名言にもあるじゃないですか。思考に気をつけなさいって。それが行動や習慣、性格、果ては運命にまで繋がっていくって。

「思うだけなら」と許容していては、それはいずれ「運命」になってしまうかもしれない。それって恐いですよね。


ただ一方で表現の自由というのも、守られるべき権利かなと思います。表現する前段階には当然思考がありますよね。思ったことを表現するわけですから。ということは表現の自由を守るということは、当然思考の自由も守るということですね。

そもそも表現を制限されることすら今の日本では考えにくいのに、思考まで制限するなんてことは現実的ではありません。無理でしょう。


そうなると差別というものを完全になくすのは相当難しい。だからと言って差別は残ったままで良いとも思わないし、なくすための努力をしなくても良いとも思いません。

今は差別を受ける側の、何かしら不利益を被る方達が中心となって闘っていて、そうではない多くの方は関わりもしていない。直接不利益を被るわけではないけど、差別をなくすために闘うという方が増えて、差別を減らしていくスピードを上げるぐらいしか、今できることはないのかもしれないと思ったりしました。今苦しんでいる方にとっては、そんなの何の解決にもなってないのかもしれませんがね。