どーも、朝起きて日中肉体労働してたら、夜眠れないことなんかなくなったクズです。むしろ夜、家事なんかを終わらせるまで寝ないようにするのが大変です。
身体が疲れていれば眠くはなる。人間だけでなく、生物ってそういう風にできているんでしょうね。
ただ、心配事とかストレスが原因で眠れないということもある。
その辺はまぁ、登録制の底辺労働者ですから、余計なことを考えずに言われたことだけやる。あとは例えば自分がモノを落としてしまって、それが当たって誰かケガしたみたいな、自分が原因を作ったことに対する最低限の責任は果たしますが、それ以外に仕事の責任だなんだなんて背負わない。
そういうこと書くと仕事に対する意識が低いとか言われますが、下請けの下請けのまた下請けの現場仕事なんて、そういう駒の方が必要とされてたりするんですよ。一級建築士ばかりじゃ家は建たないですからね。
とにかく、何のために働くか考えた時に、自分の生活の為なわけですよね。自分のために働いてる。そこを見失わないように、自分優先で働ける環境に身を置く。それって大事だと思いますよ。


さて、いきなり話が逸れまくってしまいましたが、今回はランドセルに関するニュースを二つ、短い間に続けて耳にしたので、そこから思ったことを書きますね。
まず自身がランドセルなんか使ってたのは数十年前
というおっさんからしてみると、まだランドセルなんか使ってるんだという感想しかないですよ。
個人的にはランドセルの良い点なんか一つしか思いつきません。背負ってるから両手が使える。それだけ。
そんなもの今の世の中いくらでも使い勝手の良い鞄はありますよね。無駄にデカくてしかも高い。六年間も半強制的に使わせられるものを、まだ先のこととか考えて選択できない未就学児に判断できるはずもない。結果幼児の時は欲しいと思ったけど…というものを六年間使うか、本人の意見は無視して親だか祖父母だかが決めたものを使うかになる。

なんでランドセルなんてものを止めて、自由に鞄を選んで使えるようにしないのかわからんですよ。
多様性を認めましょうってなってきてるんだから、それで済む話だと思いますがね。

また、話が逸れてしまいました。ニュースの話ですね。まずは先に目にしたのが「さんぽセル」というものに関するものでした。
これに関しても私みたいなのが思うのはただひとつ。未だに小学生の鞄ってそんなに重いの?です。
まず思ったのがコロナ禍でリモート授業がドンドン導入されて、一人一台タブレットを買わされたはずだよなぁって。教育だかなんだかで、無駄に高いヤツだって問題になってたような気もするけど、アレに教科書も参考書も資料集も入るだろって。荷物なんてタブレットとノート、筆記用具ぐらいで十分なんじゃないの?そのぐらいなら子どもが背負ってもそんなに問題になる重さじゃないじゃんってね、思ったんですよ。まさかクソみたいに重い教科書も参考書もそのままで、タブレットが荷物に増えただけなんて思いもしないから。
なんでそんな無駄を止めようとしないんですかね。教科書も参考書や資料集も、長い歴史の中でもう少し持ち運びしやすいようにしようって、なんでそうならないか不思議なんですよね。
鞄が軽くなれば「さんぽセル」のようなものも必要ないわけですから、無駄な誹謗中傷とか言い争いなんかも起きないんですよね。無駄ですな。

なんて現場に向かう車の中で話してましたら、あの程度の鞄が重いなんて文句言うのは論外だと、やっぱりそんなこと言う人もいるんだなって思いました。ネットニュースのコメント欄にしかいない架空の存在じゃなかったんだって、ちょっとした感動とともに辟易としましたとさ。
まぁ、その方はだいたい何にでも自分はこれだけ苦労したのに、今の若い者は技術の発展とかの恩恵で楽をしている。その上文句を言ってさらに楽をしようなんてのは、性根が腐ってる。ロクな大人にならない。そんな風に言う方ですから、別に「さんぽセル」自体に特別反対っていう感じでもないんですよね。便利になることを良しとしない。自分が着いていけないとか、後は不公平感でしょうかね。自分たちだけあんなに苦労したのに…みたいな。そういう考えの方も少なくないみたいですし、自分の中にもそういう考えが全くないかと言うと、たまに少し顔を出すこともあるよなぁと思うんですよね。
でもそういう考え方ってハラスメントに発展しそうで怖いですよね。部活とかそういうのあったんですけど、顧問の先生が若い時は部活中に水なんか飲ませてもらえなかったとかね。体罰とかも昔は当たり前だったとか。そう考えると考え方を変える必要があるんですよね。でも長年かけて出来上がってきた考え方とか性格とかって、そんなに簡単には変わらないですよね。何年か前に言われたのは使う言葉を意識することだってことなんですね。例えば意識してポジティブな言葉を使っていれば、考え方もポジティブ寄りになっていくとか。そんな単純なものでもないだろとも思いますが、やり続けていたらポジティブになるというほどではないですが、細かいことに悩み続けることはなくなったかなとは思います。だとしたら、ネットニュースのコメント欄に批判とか中傷とか、マイナスの言葉を書いてる場合じゃないんですよ。自分の本心ではなくてもプラスの書いてみたら、何か変わるかもしれませんね。そういうことから始めてみるのも良さそうです。

さて、一つ目のニュースの話が長くなってしまいましたが、もうひとつランドセル関連のニュースがありましたね。茨城県高萩市で、男女の差をなくすためにランドセルを紺色に統一することにしたらしいんですね。これもまた今更そんなこと言うのかと。さっきも書きましたが、ランドセルに拘る必要がどこにあるんですかね?好きな鞄を使わせれば良いのに。果たして多様性とは何なのかって話になるじゃないですか。何か統一する方向にルール作りしようとするのは、日本人の悪いところな気がしますね。
確かに後ろから見ただけで、赤いランドセルなら女の子だとわかったら、身を守るとか安全面を考えても色を変えるっていうのは必要でしょうね。ただそれを紺色に統一っていうのは違うんじゃないかなと思うんですよね。
これは平等という言葉の捉え方次第だと思うんですよね。つまりは年齢とか性別とかで差別されるべきではない。それはまぁそうですよね。若い人はこうあるべきとか、年寄りはこうでなければいけないとか、男らしさ女らしさとか、そういう考え方が差別に繋がる。それもその通りかなと思うんですよ。
で多分捉え方が違うのはそこからで、私みたいなのはだったら年齢とか性別とか関係なく、ありたい自分でいれば良いって思うんですよ。もちろん法に反したり、他者に迷惑をかけたりしないというのは守った上でですが、自由でいれば良い。その人が自分で選んで決めたことなら、男がスカートはいてようが他人がとやかく言うことではない。そういう風に考えるんですけどね。
何でしょうね。自由なんていうと収集がつかないとか、ある程度は管理する必要もあるとか、そういう風に考える人がいるんでしょうかね。あとは例えば経済的な面とかそんなんでしょうかね。私服通学の高校とかで、安い服装とか同じ服しか着てないとかでからかわれたりなんて話は確かに聞いたことがあります。そういうのを防ぐ意味でも、みんな同じなら差別なんて起きないとかって発想ですかね?
うーん、そこはちょっとやっぱり個人的には理解が難しいんですよね。
平等と多様性って同居できないんでしょうか?そんなことないと思うんですよね。服以外にお金をかける生き方だって当然ある。経済的に恵まれていない人なんてたくさんいますよ。そこを尊重しましょうねで済む話だと思うんですけどね。

あー、なんだかいつも通り何が言いたいのかわからなくなってきました。まとめると自分が苦労したことを他者にも押し付けるな。便利になっていくことを妨げたりせず、受け入れた方が良い。何にでも文句ばっかり言う自分は、変わった方が人生楽しめるかもしれない。そのためには使う言葉を意識しよう。
そして平等と多様性が良い感じに同居できる世界にしていきたいですねぇ。
というお話でした。ランドセルひとつからでも、考えることはたくさんありますね。