【瞑想の中であなたは存在の一部になる】

たとえ一秒間でも、
無幻想、幻想なしで
生きられるようになったら、
次元の異なった愛が現れる。
べつに誰かに
必要とされるわけではなくて、
このような理解が、
覚りが現れる。
「一見まったく無関心で
あるかのような存在も、
じつは自分と違うものではない。
自分は存在の一部だ、
存在と有機的にひとつだ。
花を咲かせている木も、
自分と別のものではない。
自分はその木に花咲き、
そしてその木は自分の中で
意識を持つ。
海、砂、そして星々、
それらはみな自分とひとつだ。
自分は離れ小島ではない。
自分はこの宇宙と
有機的にひとつだ。
宇宙のすべては自分の中にあり、
自分のすべては宇宙の中にある」

そのことを知り、
感じ、覚らないかぎ り、
愛は心の状態とはならない。

もしこのことを覚ったら、
もはや
「自分は誰かに愛されている」
という私的な幻想を創り出す
必要がない。
もう「意味」はそこにあるので、
たとえ誰にも
愛されなかったとしても、
その「意味」は失われない。
もはや恐れるようなことは
なにもなくなる。
死でさえもあなたを滅ぼすことがない。
たとえ形態が滅びようと、
身体が滅びようと、
あなたが滅び去ることは
けっしてない。
なぜならあなたは
存在だからだ。

これこそが瞑想の中で
起こることだ。
瞑想はそのためにある。

瞑想の中であなたは
存在の一部になる、
存在のひとつの現れになる――
そして
「存在と私はひとつだ」
と感じるようになる。
あなたは歓迎されている。
恐怖も死も存在しない。
そしてあなたから愛が流れだす。

その愛は努力ではない。
愛するほかにはなにもできない。
それはもう呼吸のようなものだ。
内側深くであなたは
愛を呼吸する。
愛を吸っては吐き出す。

この愛は献身へと成長する。
そして究極的には
それも忘れてしまう。
ちょうど呼吸を
忘れてし まうように。
あなたはいつ呼吸を
思い出すだろうか。
考えてごらん。
呼吸を思い出すのは、
なにか異状がある時だけだ。
なにか困難を感じる時、
呼吸していることに気づく。
それ以外の時には、 
呼吸を意識する必要さえない。
もし呼吸を意識するとしたら、
それは呼吸活動に
なにか異状があるということだ。

呼吸活動を
意識する必要はない。
静かにそれは続いていく。 
だからあなたが
自分の愛を意識するとすれば――
心の状態としての愛のことだが――
それはまだどこかに
異状があるということだ。
だが徐々に、
その意識もなくなっていく。
そしてあなたは 
ただひたすら
愛を吸い込んでは吐き出す。
あなたはなにもかも
忘れてしまう――
自分が愛している
ということでさえ。
するとそれはもう
献身となっている。

【Osho講話「第三の眼」】




Osho は生前、沢山の講話を語り
私たちにそれらを残してくれました。


この言葉は、沢山の講話の中でも
私の胸を打つ一文です。






この世界には様々な人がいて
Osho はあらゆる人たちに向けて様々な視点から語っていたのだと思っています。







そして、沢山ある中で特に心に響く話は
そこにきっと、個々のDivine に繋がる何かがあるのだと思います。






愛とは何か

献身とは何か






そんな風に考えたことのある方にはきっと、この講話は

深いところに入ってくるかも知れません。