【存在は表面的にはあなたに無関心だ】
愛の中であなたはこう感じる、
「自分は受け容れられている、
歓迎されている、
招かれざる客ではなくて、
招かれ、歓待され、
迎えられている、
自分というものを存在が
喜んでいる」
つまり、
あなたを愛してくれる人が、
存在全体の代表者となるわけだ。
だがこの愛は根本的に
恐怖に根ざしている。
恐怖に対して、
死に対して、
存在の非人間的な無関心に対して、
あなたは自分自身を守っている。
実際、存在は無関心だ――
少なくとも表面的には。
太陽、海、星々、地球、
そういったものは、
まったくあなたに無関心だ。
誰もあなたのことを
心配していない。
どこから見てもあなたはいらない。
あなたがいなくても、
すべてはあなたがいるときと同じだ、
なにもなくならない。
存在を表面的に見てごらん。
誰も、何物も、あなたを
かまいはしない――
おそらくあなたの存在に
気づいてさえもいない。
星々はあなたの存在に
気づいていない。
あなたが母と呼んでいる
この地球でさえ、
あなたの存在に気づいていない。
あなたが死んでもこの地球は
悲しまない。
なにも変わりはしない。
すべては今のまま、
まったく今までのままだ。
あなたがいてもいなくても
なんの変わりもない。
するとあなたは自分のことを
なにかの間違いだと感じる。
「自分は必要とされていなかった。
招かれていなかったのに
自分はやって来てしまった。
ただの偶然の産物だった」。
そのことが恐怖を もたらす。
それがキルケゴールの言う不安だ。
微妙な恐怖がいつも存在する。
自分は必要とされ ていない。
ところが誰かに愛されると、
まさに別世界が現れたような感じだ。少なくともひとりの人間は
泣いてくれる、
惜しんでくれる、
悲しんでくれる。
きっと涙を流してくれる・・・・
自分は必要とさ れている。
少なくともひとりの人間は、
もし自分がいなくなったら、
その淋しさをいつも
感じてくれるだろう。
少なくともひとりの人間にとっては、
自分は意味ある
かけがえのない存在だ・・・。
だからこそ愛がこれほどまでに
求められるのだ――
愛されていなかったら
根なしになってしまう・・・。
だがこの愛は
私の語っている愛ではない。
この愛は人間関係であり、
互いに創り出す幻想、
共同幻想だ。
私にはあなたが必要であり、
あなたには私が必要だ。
私はあなたに幻想を与える――
あなたがいなければ
私の目的、私の意味、私の生は
失われてしまう・・。
そしてあなたは
私に幻想を与える――
私がいなければ、
すべてが失われてしまう・・・。
だから私たちは互いに
助け合って幻想の中にいる。
私たちはそれぞれに
私的な世界を創り出し、
その中で「意味ある者」となる・・・
その中でこの大宇宙の無関心を
忘れ去る。
恋人同士は
互いの中に生きている。
ふたりは私的な世界を
創り上げている。
だからこそ、
愛には相応のプライバシーが
必要なのだ。
もしプライバシーを
保っていなかったら
世界は絶えずぶつかってくる。
そして絶えずこう語る、
「君たちのやっていることは
すべてたんなる夢だ、
相互的な幻想だ」。
愛はプライバシーを必要とし、
その中で全世界が忘れ去られる。
ただふたりの恋人だけが存在し、
そして存在の完璧な無関心は
忘れ去られる。
そしてあなたはこう感じる、
「自分は愛されている、
歓迎されている。
もし自分がいなくなったら
すべてが変わってしまう。
少なくともこの私的な世界では、
自分なしではすべてが
変わってしまう」。
そして生きることに
意味が生まれる。
が、私が語っているのは
この愛ではない。
それは実際のところ幻想だ。
育まれた幻想だ。
人間とはものだから、
このような幻想なしでは
生きていけない。
だが、そんな幻想なしで
生きる者も ある。
ブッダはその幻想なしで生きる。
それを創ることがない。
【Osho講話「第三の眼」】
"恋愛やsex、関係性の中に答えはないー"
今朝、そんなメッセージが降りてきました。
関係性に限らず、外側の世界に答えは存在していないのだと思っていますが、
私たちは外側を通して自分を知り、外側を通して内側に気づく
ただそんなゲームをしているのだと思います。
ですがこと関係性となると、そこに色んなファンタジーをつけて、ズブズブにハマって
それをスピリチュアルにかこつけて2人だけの世界を築いたり、
中にはそれをタントラだと思っている人もいます。。。
が、
幻想ではなく、リアルを生きること。
このファンタジーに気づいて、抜け出ることこそがタントラなんだと思います。