生はひとつの機会だ。
愛の薔薇が花開く土壌だ。
愛は本質的に価値あるものだ――
愛はどんな目的ももっていない、
どんな意味ももっていない。
はかりしれない意義深さは
もっている、
大いなる歓びはもっている、
それ自体のエクスタシーは
もって いる――
しかし、それらは意味ではない。
愛は、目的、目標が
問題となるビジネスではない。
愛のなかには、
ある種の狂気が常にある。
そして、その狂気とは何だろう?
その狂気は、
なぜ愛するのかを
証明できないがゆえにある。
あなたは自分の愛に、
どんな道理にかなった答も
与えられない。
ある仕事をするのは
金が必要だからだ、
と言うことはできる。
あなたが金を必要とするのは
家が必要だからだ。
あなたには家が必要だ。
家なしでどうやって生活できる?
あなたの日常生活では、
すべてのことに何らかの
目的がある。
だが愛には、
どんな理由も与えられない。
あなたは、
「私にはわからない。
私にわかるのは、愛するということは自分自身のなかでもっとも美しいスペースを体験することだということだけだ」
としか言えない。
しかし、それは目的ではない。
そのスペースは脳のものではない。
そのスペースは商品には変えられない。
そのスペースもまた、
真珠のように輝く露を宿した
薔薇のつぼみだ。
そして、早朝のそよ風のなか、陽のなかで、
その薔薇のつぼみは踊っている。
愛は、あなたの生の踊りだ。
それゆえに、
愛が何であるかを知らない人々は、
生の踊りそのものを逃している。
薔薇が成長する機会を逃している。
だからこそ、
世俗的なマインドには、
打算的なマインドには、
コンピュータ・ インドには、
数学者、経済学者、政治家には、
愛は一種の狂気だと映る。
しかし、愛を知る人々にとっては、
愛が唯一の正気だ。
愛なしでも、
人は金持ちで、
健康で、有名かもしれない。
しかし、彼は正気ではありえない。
なぜなら、彼は本質的な価値を何も知らないからだ。
正気とは、あなたのハートのなかで
開花している薔薇の芳香にほかならない。
恋人たちは、精神医学の治療を必要としない。
実際のところ、愛は生におけるもっとも偉大な治癒力だ。
それを逃してきた人々は、空虚で満たされないままにとどまっている。
通常の狂気には、どんな秩序もない。
だが、愛と呼ばれる狂気には、
そのなかにある秩序がある。
そして、その秩序とは何だろう?
それは、あなたを楽しくする。
あなたの生をひとつの歌にする。
あなたに偉大な優美さをもたらす。
Osho
恋の瞬間、
私たちは言葉を失い
自分を失います。
その自分が消える瞬間こそ
私たちが求めてやまない
宇宙とのオーガズミックな体験です。
この
自分のことを忘れる瞬間は、
自分で起こすことができない
尊い瞬間。
それは
宇宙がくれた
尊い贈り物。