比較をすると、その比較の中に非凡が起こる。
そうでなければすべては普通だ。
それ自身にとってみれば、すべてはそのあるがままだ。
だから比較したり、追い求めてはいけない。
追い求めたら、瞑想は失望となるだろう。
瞑想することによって、自分はどこまでも普通だと感じるようになる。
だから、普通を受け入れ、歓迎する。
それはいいことだ。
それは瞑想が進んでいるしるしであり、深くなっているしるしだ。
でも、まだどこかに、非凡になりたいという欲求が存在し、それが障壁を作り出している。
その欲求が消え失せるとき、あなたは自分のことを普通だと感じなくなる。
あなたはただ在る。
自分のことを普通だと感じるだろう。
あなたはただ在る。
そして在るということ・・・・・・普通だとか非凡だとか感じないくらいただ在るということ、それは到達するということだ。
それはいいことだ。
がっかりしてはいけない。
がっかりするということは、欲求を抱いているということであり、その欲求が毒を生み出しているということだ。
どうしてそんな狂気が存在するのか。
どうして誰にもこのような狂気が起こるのか。
この世界全体が狂気の状態だ。
誰もが、「特別になろう、何者かになろう」としている。
生が起こるのは、あなたが何者でもないときだ。何者でもないくらい空虚になったとき、生の全体はあなたを通じて流れていく何の障害も、何の妨げもなく……。
そのとき、その流れは全面的になり、完全になる。
何者かである人間は、岩となる。
そして流れを阻害してしまう。
生は彼を通じて流れることができない。
そこには闘争があり、抵抗がある。
そしてもちろん彼は、ひどい騒音を生み出す。
ひどい騒音を生み出すからこそ、「自分は特別な人間だ」と思ったりする。
要は、空虚な器、空虚な通路となることだーー何の抵抗もないような。
そうすれば生は容易に流れる。
そうすれば騒音も生じない。
おそらく、もはや「自分は存在する」とは感じないだろう。
自分が存在すると感じるのは、闘っているときだけだ。
闘えば闘うほど、自分の存在を感じるようになる。
生があまりに滑らかに流れると、自分が存在することもすっかり忘れてしまう。
障害もなければ、抵抗も、拒絶も、否定もない。
すべてを受け入れ歓迎するから、自分が存在することさえ忘れてしまう。
Osho