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遅かれ早かれ、タントラは初めて大衆の中で爆発するだろう。
なぜなら、はじめて機が熟した。
セックスを自然なものとして受け取る機が熟したのからだ。
その爆発は、西洋から起こりうる。
フロイト、ユング、ライヒといった人々が、背景を準備してきているからだ。
彼らはタントラについて、全く何も知らなかったが、
タントラが進化する基本的な土壌を用意してきた。
西洋の心理学は、こんな結論に達した。
基本的な人間の病気は何かしらセックスと関係している人間の根本的な狂気はセックスを志向している、という。
だから、このセックス志向が消えない限り、
人は自然に正常になることはできない。
人が道を誤ってきたのは、唯一セックスに対する態度ゆえのことなのだ。
どんな態度も必要ではない。
そうなって初めて、あなたは自然だ。
”目”に対してあなたはどんな態度をとるだろう?
”目”は邪悪だろうか?神聖だろうか?
”目”に賛成したり、反対したりするだろうか?
どんな態度も取りはしない!
だから、あなたの”目”は正常なのだ。
なんらかの態度を取ったら、”目”が邪悪だと考えたらーーー
そうしたら、見る事は難しくなるだろう。
そうしたら、見る事は、セックスのように問題となるだろう。
そうすれば、あなたは見たいと思うようになる。
欲望が生じ、見ることにかまけるようになるだろう。
見るときには、あなたはやましさを感じるようになる。
見るときはいつも、やましく感じ、
何か悪いことをしている、
罪を犯していると感じるようになるだろう。
そうしたら、とても馬鹿げたことが始まることになる。
あなたはもっともっと見たいと思うようになり、
同時にもっともっとやましく感じるようになるだろう。
同じことがセックスセンターに起こって来た。
タントラは、ありのままの自分を受け入れろという。
すべてを受け入れるということ、それが基本だ。
すべてを受け入れることを通してのみ、成長することができる。
OSHO
私が予々感じていたこと、、
それは、女性性の解放とか謳ったワークとかあるけど、何故解放する必要があるの?
それは、そもそも自然にあるもので
開いたり閉じたりするものではないと思うのです。
もし性的なトラウマがあって、セックスにオープンになれないなら、働きかけるべきはそのトラウマだと思うのです。
タブーも不自然だけど、解放も不自然。
自然であるものに、働きかける必要はないと思うのです。
Osho が言うように
どんな態度も必要ないのだと思います。
目の解放ワークとかないですよね?
もし仮にそれは第一チャクラを示しているとして、
第一チャクラだけが開いたら、苦しみます。
そして、セックスは超えるもの
超越するのです。
セックスの中で得る一瞬のワンネスは悟りではないのです。
ただ垣間見るだけ。
だから、セックスでは悟りません。
肉体で起きることは有限なのです。
オーガズムも、ワンネスも。
私は、セックスに特別な意味を与えることは
そこに囚われているのと同じだと思うのです。
つまりただタブー視と反対の極にいるだけなのです。
別に、ヤリたいならヤリたいでいいと思うの。
セックスを超える過程にあって、まだセックスから離れなれない自分を受け入れたらいいと思う。
それは何も悪いことじゃない。
そういう自分を認めることで、
そこから始められることがあるから。
個人的には、せっかくスピリチュアルとか、悟りとかに興味を持ったのなら、
セックスのもっと先を目指してもらえたらと思うのです。
セックスに留まってしまうのは、もったいないよと思ってしまう。
なぜなら
本当の出合いは、サマーディの中でのみ起きるのです。
私はそこで出合いたい。