『優れた道徳心は習慣からしか生まれない。
私たちは、自分でつくった習慣のようにしかならないのだ。
節制している人は節度ある人となり、勇気ある行動を続けている人は勇敢な人となる。』

アリストテレス


日々、どのような言動をしていくか、謙虚な姿勢を忘れてはいけない。
それが人格を正し、善い生き方につながっていく。


『人多き 人の中にも 人ぞなき 人となれ人 人となせ人』

道歌
おはようございます。
私の合気道の師匠、文武両道を地でいく方なんです。
ピアノの弾き歌いでシャンソンからポピュラーなど幅広く歌うコンサートを毎年開いたり。
道場で、以前は大東流合気武道(私は、その時分の門下生で、昭和62年12月20日、故武田時宗宗家から初段を認可いただきました)。現在は大東流を離れ、護身合気武道教室(柔・剣・杖)となっています。
さらに居合道教室(無双直伝英信流)、そして水彩画教室と、まさに文武両道なんです。
毎月、合気道、居合道稽古日スケジュール、武道や最近の話題などのプリントを現在、道場に通えない私にも送ってきてくれています。
その今年1月1日付の号から。
昨年、スケッチ旅行で泊まった尾道の古い旅館のトイレに、いくつかの格言のメモが貼ってあったそうです。

○したい人1000人、始める人100人、続ける人10人。
○反省することがプラスではなく、失敗に対して行動を起こすことが本当の反省。
○100回挑戦して100回成功するわけじゃない。1度も挑戦しなければ一生成功はない。

同じような言葉は見たことがありますが、改めて、なるほどなと。

それから私が、特に心に残ったのが…
○「吐く」は「口」に「+」と「-」。「-」(マイナス)を言わなくなると「叶う」。

もちろんマイナスをためすぎ、抱え込みすぎも良くないでしょうが、不平を言わず、必死にやっていれば、やはりそれなりの結果は出てきますよね。
師匠、曰く、「トイレだけにウンちくのある言葉です。」と結んでいました。
失敗に挫けないで、何度でも立ち上がり、必死に続ける。私も、そういう姿勢をとりつづけたいと思いました。
死に直接結びつくような病になると、「死にたくない。もっと生きたい」と切実に思うでしょう。
それまで死を身近に感じていなかったのに、何故、自分が、と絶望、怒り、持っていきようのない悲しさでうちひしがれてしまいます。



『大切なのは、生の側から死を見る以上に、死の側から生を確かめるという視点だ。
これが定まらないと、自分の人生も芸術も実り多いものにならない気がする。』

横尾 忠則



死とは、いったい何なのか?
自分が存在しないこと。
存在しないとは?
自分とは?
私も、含めて、このブログを読んでくださっている方々、誰一人として「死」は見たことはありません。
死んだ体、いわば死体。それを解剖したとして、止まった心臓や脳は、見られても、それが「死」ではない。
「死」は存在しないこと。だから、この世に死はない。
生きる、存在している、だから「私は死なない」。
池田晶子さん的な形而上の生(ある)と死(ない)の存在論を、どんどん問い詰めていくと、生死と存在とは、必ずしも関係しないと思い至ってくる。
生も死もなく、全て、「今、ここに」存在するのだ。
人は、生死という相対性を越えて、絶対的に「存在する」。
存在しない死を恐れ、行く末を憂いていては、いつ本当に生きるのか。
本当の自分を生き生き生きる、今を自ら棄てることになるのではないか。


『死を覚悟し生きていれば、何かを失う気がするという心配をせずに済みます。あなたは初めから裸なんです。素直に自分の心に従えば良いんですよ。』

スティーブ・ジョブズ


死を恐れることによって、人は本当には生きることをしていない。
私たちが、存在するのは、如何に生きていくのか、これを常に心して行動していくことではないだろうか。


『死ぬためではなく生きるために行動するのが、私たちのあるべき姿です。』

アインシュタイン