こんにちは、梨微(りび)です
最近、とあるスピリチュアル系のLINEオープンチャットに参加させて貰いました
どういうものなのか知らずに参加したのですが(地味に疎いです。はい。)人が多くて、兎に角チャットが猛烈な速度で流れていくので切れ目というのがありません
数百人もいるとこんなに収拾付かない感じになるのか…ととても驚きました。
(以前ネットゲーマーだったので50人くらいのチャットにはある程度慣れていましたが笑)
大勢の人との集まりの中にいる時に、
人に話を聞いてもらえないと寂しいって感じたり、私の居場所じゃないんだって感じたりする場合のことをお話します
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本人にとっては勇気を出して、なかば必死で声を上げたであろう寂しそうな言葉がどんどん流されていく中、誰かがそれを拾ってお返事したとしても焼け石に水くらいな勢いで流されていくのが印象的で、
みんなが賑やかにワイワイと会話している中に中々入れない人、どうしたら混ざれるんだろう?本当は私の話も聞いて貰いたかったし質問もしたいけど怖い…。そんな風に感じて抜けていった人はどれほどいるんでしょうか?
ストレートに言って、大勢の中でガンガン話ができる人の気持ちは私にもよく解りません
(ガツガツ入っていくのはわりっと苦手です)
元々その場の人達と先んじて仲良かった方達もいたようでしたし。
気にしない自分自身が強い人もいるでしょうし、承認欲求が強い人も、我が強い人もいることでしょう。
親切な人もいれば、誰かに自分の優しさを響かせたくて一生懸命人の面倒を見る人もいます。
本当に純粋な人も中にはいるでしょう。(個人的には主さんが大抵これに当てはまると思います。)
その輪の中で
人の言葉の波にもみくちゃにされながら
果たして、あなたの尊い心の内を聞いてもらう必要があるのでしょうか?
果たして、その輪の中に一生懸命になってまで混ざる必要があるのでしょうか?
人も神様と言われている霊的(思念体・波動的・又は肉体を持たない宇宙人のような)存在たちも、相性の合う波動、合わない波動というものがあります。
早い話、会話に入れないなら「入らなくていいよ」という意味です。
私の居場所じゃないなと感じるなら「あなたのいるべき所は別にある」という意味です。
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少し別の角度から話すと、
人は昔から群れて協力し合って生活しているので、今は核家族化が進みそれが当たり前になってしまっているので、大人数と共に行動したり接したりする事に慣れていないのではないかという事です。
一人の時間が多くなり、人と接する時間が減り、付け加え家族間でも会話が減っていたり、人との接点がとても少ないですよね。
昔なら大人数で生活し、人との会話も当然で家族とご飯を食べ、何かあったら家族で相談したり、今日あったことを話したりするので人の顔色を見たり心の内を察する機会も多く、心の機微を読み取る事が用意でした。
(食事中にTVやスマホ見たりなんて事もなかったですしね)
つまり、現代人は人の心の機微を読み取るのが下手で、人と接しなれていないので接し方も下手。という事になるのだと思います
(仕事上の付き合いとかは表面上だけのことなので、機会が多かろうとあまりカウントに入らないのかなーと)
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そういう事情を踏まえた上で、私が感じた事も含めてこの先を書いていきますね
まずはじめに
”誰かに話を聞いてもらえない「私なんて」と思わないでください。”
「” ”」で括った言葉、これは霊聴できる私を守ってくれている神様からのハッキリとした言葉です。
(みんなに対して仰っています。)
これはどういうことを示しているのかと言いますと、
「ちゃんと見守っています、私達はあなたの言いたい事を理解しています、心配しないでください。」
という事です。
”人は基本的に、見たいものしか視たがらないし、聞きたいことしか聞こうとしない、話したい事しか話したがらない”
これは神様といわれている存在にとっては、人は都合のいい部分しか見ない聞かない話さない(見ざる言わざる聞かざる?)というような事を言っています
つまり、自分を卑下して、一方的な願い事を言っているうちは神様の声は届きません。
自分自身では認識できていないかもしれませんが、自分を卑下しているほうが楽だから聴きたくないからです。
素直になって多くの事に感謝ができるようになると、神様の声(意思)も恩恵も届くようになります
スピリチュアル好きな人なら氣付いて欲しいのですが、それらの言葉だけで私たちは守られていると感じてみてください
人の世は理不尽な事もあったり、悲しい事も多いです。
”それは受肉した我々も等しく同じ”
”人として生き慣れていないので、皆のように生きられず辛い思いをする者も多い”
のだそうです。
私たちが神様と思っている存在も、受肉して人として生まれれば今まで使えていた力が使えなかったり、他者の心を読み取る力も封じられてしまっていたり、大変な不便を強いられる事になったり…「生きる」という事が困難な事もあるようです
私たちが神様と思っている存在がこの世に生まれていて、一緒に何気なく暮らしているのだと思えば困っていそうな人(神様)を見つけて人助けすることも気持ちが晴れやかになるかもしれませんね
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ある時、
「一人でいる事に慣れたほうがいい」と訴えかけていた人がいましたが、この事の意味は「孤独でいたほうが傷つかない」と受け取る人が多いかもしれません
(言っていた本人の意思はどういう意図で言っていた事なのかわかりませんでしたが。)
ですが、それは逆だという事です。
最近、アドラー心理学の人とかが
「他人に機嫌を取ってもらわないと元気が出ないという人が多いけれど、自分の機嫌は自分で取るもの。」
といった内容を発信していたりします。
どういうことかというと、他人を当てにして相手の言葉や接し方に感情の主軸を置いていると自分自身の感情が振り回されてしまう。ということです
他人に依存してしまっているということですね
大勢の中に入って、話に混ざれなくてガッカリするのは「感情の機嫌が他人依存(他人任せ)・他人軸だからでしょう。
私にも経験があるのでこれはとても理解できます
「私は私でいいんだ、みんな違ってみんないい」という事を腑に落とすと、大勢の中に入ってもブレにくくなってくると思います。
もうひとつ言うと、みんながワラワラと自分に向かって一斉にこっちに来るのってお返事するにしても話の切れ目を見つけるにしても結構大変だと思います
そう考えたら、みんなが知らない間に覗いて楽しそうな部分だけおすそ分け貰って微笑んで、無言で去ってさっさと次の自分のやるべき事に集中できる…そんな自分の位置もそう悪くないんじゃないかな~と思うわけです
”みんなの言う神様って実はそういうもの” と仰っています
お祭り等ではみんなの知らない間に現れて、楽しそうにしている姿を横目で見聞きしつつ、美味しそうな食事をつまんで、さぁさぁお役に戻ろうかな…という感じなのだそうです。
如何様にも姿を変えれるので、視える人の相手をする為の自分そっくりの代理も沢山いるのだそうです
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「憧れてせっかく人の輪に入ったのにそれでも心がザワつくんです。」という方は、そのグループにあってない可能性もあるので無理は辞めたほうがいいと思います
あなたを必要としてくれる場であったり、あなたが居心地がいいと感じる場は他にあるのだとしたほうがいいと思います。
「スピリチュアルが好きだけど、みんなは神様に守られて、視えて聴こえて凄いけど、私が守られてるなんていう事があるのかな?」って思っている方。
霊聴できる私も、私は人にも神様にも嫌われてる、他人が羨ましいと思っていました。
今回はその理由まではとんでもなく長くなるので書きませんが、
例えば有名な方で、YouTubeや書籍でおなじみの「自分大好きもっちー(望月彩楓)」さんも、視えて聴こえても「悪魔のささやきだ!」と思って信じていなかった過去があるそうです
それぞれ事情は違えど、育った環境や自分の捉え方によっては信じられない場合もあるかとは思います。
が、
神社が大好き、神様に興味がある、そんな人はみんな守られていますし愛されていますので、大丈夫です
伊勢神宮内宮 宇治橋にて
何となく神様が背中を押してくれるような、そんな心地になっていただけたら幸いです