こんにちは。
いつもブログを読んで下さり、有難うございます。
前回のブログの、サンチョさんが、
洗礼を受けたお城は、こちらの飯盛城です。(動画は再現CGです)
(前回、飯森城と書いてましたが、飯盛城の間違いでした どうもすみません)
この動画は、つい最近知りました。。
飯盛城の、再現図が見たいけど、ないかな・・と探してたら、この動画を見つけました。
こんなすごいお城を見れて、感無量です。 サンチョがこのお城で洗礼を受ける様子も、目に浮かびました・・
三好長慶の人生、そしてお城の変遷を、時系列で、追っていきたいと思います。(三好長慶は以前にも特集しましたが、また別の観点から書きます。。)
1532年 父・三好元長が死去 (父は力を持ちすぎて、主君・細川晴元にうとまれ、晴元が差し向けた軍(一向一揆軍)により追い詰められる 顕本寺にて自害) この時は、(命が危ないので)母と共に、いったん故郷の阿波に帰る。
1533年 長慶、12歳で、一向一揆勢力と、晴元との和睦をあっせん。 (晴元さえも、もはや一向一揆の勢力を、抑えきれなくなっていた)
この直後、元服したそう。
1539年 越水城(こしみずじょう)を任される(西宮市)。 長慶18歳 (実力がまだないので、周辺の池田や伊丹の国衆に、戦で招集をかけても、誰も駆けつけてくれない)
→ 実力本位の人材登用をはじめる。(宿老達は、先の戦で死んでしまい、とにかく長慶の周りに人材が足りなかった)
この時、松永久秀を見出す。土豪だった久秀を抜擢すると、久秀は、朝廷や大名との交渉に、どんどん力を発揮していく。
・法華宗との連携
当時、
尼崎のある大きな法華宗の寺院が、
近畿~九州に広がるたくさんの末寺と、互いにネットワークを作り、
じつは東南アジアと、貿易を展開していた。
長慶は、これに注目した。
そして、この尼崎の寺院に、特別なはからいをして、(スペシャルな目こぼし)(三好軍は、こちらの寺には決して狼藉を働かない、こちらの寺の自治を認める、etc)
この寺院を保護し、大切に扱った。
そしてこの法華宗との連携が、
三好長慶自らの経済的基盤となった。
この貿易で、長慶は、すでに銃もどうやら手に入れて、実戦でも使っていたらしい。
・瀬戸内海の支配
弟三人を、それぞれ阿波・讃岐・淡路に送り込み、
水軍を手に入れ、瀬戸内海を支配していた。
1549年、 細川晴元との戦いに勝利する。(現在の大阪市東淀川区のあたりで)
この後、三好政権が発足する。
1553年 芥川山城(大阪府高槻市)に入城。
1560年 居城を、芥川山城から、飯盛山城に移す。(大和・和泉・河内方面への進出の意欲か)
だから
上の動画のお城は、1560年頃の様子だと思います。 ← この頃、織田信長は、桶狭間の戦いで今川を破った頃だそう
この飯盛城が最後の居城となり、
1564年に、三好長慶は、亡くなります。(享年43) →その後、織田信長が台頭してくる
まさに、激動の、波乱万丈の人生・・
10歳の時に父を失う・・
いつの間に、
連歌や、茶道は、達人の域にまで達したのか??
上流階級の、セレブの大名や堺の豪商・茶人たちとも、対等に付き合えるように、彼らに負けないように、鍛練を積んで・・
並々ならぬ、苦労人の長慶・・
大阪の大東市に城があったこともあまり知らなかったし、
改めて、長慶のすごさに驚かされました。
長くなってすみません。
今日も読んで下さり、有難うございます。
※ 参考:NHK歴史秘話ヒストリア(令和元年6月19日放送)