何でもそうだが、「やっている」のと「やれている」との間には相当な開きがある。今回、Go-Ya Bandのドラムを引き受けたが、まだまだ自分ではやっているのレベルである。以前なら、何とかバンドの中でやっている事に満足を覚え、勢いで何とかなるだろうと目論んでいた。でも、最近は不十分な技術やクリアできていない問題を抱えると、納得できるまで満足できないしとても不安を覚える様になった。いい歳をしたおっさんが、へこいドラムを叩いているのは、みっともないし惨めである。



ドラムを始めたきっかけは、岡大の軽音楽部と言うサークルの時である。岡大の軽音楽部は津島キャンパス、鹿田キャンパスそれぞれにあって、進学過程の頃(1~2年生)は津島キャンパスに行くのでそこの軽音楽部に入っていた。津島の軽音楽部はアットホームなサークルで、バンド単位での活動以外に飲み会や合宿などもあり、バンドメンバー以外との交流もそれなりにあった。




同期で入った教育学部の田原と言う奴は、とても純朴で真っ直ぐな奴だった。然し言い換えれば要領が悪く、バンドを組む事が出来ずいつも一人でいた。ある時彼と話す機会があって、最初は他愛もない話をしていたのだが、事、音楽について関しては彼の熱い思いを聞く事になった。彼もバンドを組みたかったようだが、サークルに入ってもたもたしている内、主要なメンバーは皆バンドを組んでしまった。しょうがないので今は一人でやっているけど、自分も本当はバンドでやりたいんだと。酒の席だったせいもあってか、それならバンドやろうと言う事になった。サークル内で浮いてるメンバーを寄せ集めてバンドを組もうとしたが、どうしてもドラムが見つからない。これは大きな障害になってしまった。あれこれ画策していたが、万策尽きてしまった。


「ええんよ、バンド組めんでも。おやじ(うえまさの事)ありがとうな。」と言われてみて、このまま終わってたまるかという気持ちになった。



まさか自分がドラムをやる羽目になるとは思っていなかったが、自分が言い出した事なのでやれるところまでやろうと思った。どうせ寄せ集めなのである程度の形になればと言う思いもあった。最初にバンドメンバーが集まった練習ではそれは「悲惨」の一言だった。お互いの技量もさることながら、全く以て一体感が無い。「何(曲)をするんな?」と言ってそれぞれが好きな曲を言うが他のメンバーは興味なし。一体どういう方向に行くのか不安だらけだった。




ある時田原が、「実は曲を書いていたんよ、それをやろうか?」と言いだした。実は彼、オリジナルを何曲か書いていて本当はこれをやりたかったらしい。これには皆も大賛成で、それから練習に身が入る様になって来た。バスドラとスネアを同時にしか叩けない、つまり手と足が同時に動いてしまう、そんなレベルからのスタートだった。


最初こそ頭で分かっているのに身体が付いて行かないもどかしさを感じていたが、ある時自分がメインでやっているバンドのドラマーの富岡に「左足でリズムを取るんよ。」と言われ基本的な身体の使い方が出来て無い事が分かった。手とり足とり教えてもらうのではなく、それこそ技を盗むつもりで同じサークルのドラマーを穴のあくほど観察した。個人練習もさることながら、半年後には何とか形にはなって来た。




サークルの発表会があって、そこで初めて人前で披露した。同じサークルには高校の同級生のY氏がいたが、彼はドラムでは大御所になっていた。彼の前でやるには勇気が要ったが、演奏後思い切って感想を聞いてみた。するとやはりというか辛口の批評が返って来た。然し、後で考えてみればまともに批評してもらえるだけの腕前にはなったと言う事である。お話にもならないというレベルではない事だろう。それから、何度か演奏する機会を得てある程度自信も付いてきた。が、津島キャンパスから鹿田キャンパスへの移動に伴い、軽音楽部も活動困難になってしまいドラムもこれ機に封印してしまう事になる。




新しい鹿田の軽音楽部では、自分の音楽でのポジションはあくまでも(ボーカルが出来る)ギターだったので、それ程ドラムに固執する事は無かった。しかも、いつもバンドをする時は必ず専門のドラマーがいたので。もう今後ドラムをする事はないだろう、とこの頃は考えていた。



時は流れて…、四半世紀。50歳にもなろうかと言うこの頃、再びスティックを持つ事になった。サザンのドラムが難しいのは効果的パーカッションが入っているから!なんて言い訳をしている自分がそこにいた。




うえまさのニッキ