水戸を色々散策してきましたが、やっと水戸城までやってきましたよーにっこり

私が日本100名城スタラリーで来た時は、建築物は橋詰門しかなくて、その橋詰門すら見ずにスタンプだけ貰っただけでしたが、ここ数年色々復元して話題になっているので行ってみることにしました。



徳川斉昭像は前からあったっけ?

スタンプラリーをしていた頃は歴史が分からない&興味もなかったんでね煽り後ろに復元された大手門がちらっと見えてネタばれしちゃってますねニヒヒ

相変わらず堀の深さすごいですよね。

前回来た時これだけは覚えている真顔

前回来た時にはなかった大手門✨
令和2年に復元されたばかりです。
水戸城で最も格式が高い門で、佐竹氏が水戸城主だった慶長6年(1601年)頃に建てられたと考えられています。土塁に付く城門としては国内最大級とのことウインク門の脇が土塁なのも、言われてみればあまり見た事ないかも。

練塀(瓦塀)可愛いですよねデレデレ

木材は釘等を使わず、一つ一つ積み上げていて、一階の柱は主に欅を、二階では檜を、梁には主に松を使用しているそうです。

高さ約13m、横約17m、扉は約900kg🚪‼️

とにかくでかい驚き

そして総工費6億2000万煽り

ピカピカですが、これから経年によって良い味が出ていくんでしょうねぇウインク

6回の発掘調査を行なって、その結果大手門の4隅に大型の練塀が見つかったそうです。
今勉強している日本城郭検定1級の過去問にでてましたよ〜
門の下の部分に発掘された瓦塀がみれるようになってます。お見逃しなく!
指が映っちゃってるの気になる。。。

彰考館跡

彰考館は徳川光圀が設立した「大日本史」を編纂する為に置いた修史局です。

彰考とは「歴史をはっきりさせて、これからの人の歩む道を考える」という意味だそうです。

明暦3年(1657年)に「大日本史」の編纂をはじめて、明治39年(1906年)に完成した大プロジェクトでした。当初は江戸小石川の藩邸内に置かれていたが、元禄11年(1697年)に水戸城二の丸のこの石碑がある所付近に移築され、廃藩置県となった明治4年(1871年)までここに置かれたみたいです。

という事は、そのあと場所が移されて完成を迎えているという事だ真顔 偕楽園をでて、坂を降りてる時に大日本史完成之碑があったが、あの辺りに移されたということのようだ。

大日本史編纂之地の石碑

彰考館とは別に大日本史編纂之地の石碑がありました。下に字が彫られてるような気がするが、見えないなぁ

安積澹泊像

こちらのお方は水戸黄門の格さん」こと渥美格之進のモデルとなった方ですポーン

安積澹泊は、彰考館の総裁をしていた方で、蒐集史料の解析から、執筆分担の決定、全体のとりまとめなどを行なっていました。通称が覚兵衛(かくべえ)。漢字は違うが、ここから格さんの名が取られたんですね。

ちなみに銅像はないですが、「助さん」のモデルとなったのは佐々十竹という方で、全国を歩いて史料を蒐集をしていました。通称介三郎(すけさぶろう)。

令和3年に復元されたばかりの二の丸角櫓を見に行ってみましょう‼️

とその前に、この入り口の横に三階櫓跡の案内板があったので、ちょっと触れておくと、この通路の突き当たり左側位に天守に匹敵する建造物であった三階櫓がありました。

水戸藩の初代藩主である徳川頼房が城の大整備をした時に建てられたが、明和元年(1764年)に焼失。再建時に茅葺から瓦葺きとなり、鯱鉾も飾られ、外観は三重だが中は五階建てとなりました。案内板の右下の写真のやつです。その後昭和20年(1945年)に空襲で焼失してしまいました。

こんな感じの道をずーっと歩いて行きます🚶‍♀️

水戸城にはかつて4ヶ所の角櫓があり、この度復元されたのは二の丸の南西角のやつですが、他に下の丸の浄光寺門付近、本丸の南西角と北西角(月見櫓)にも角櫓がありました。

二の丸角櫓は江戸時代前期に建てられ、安永5年(1776年)に一度消失、その後再建されて明治を迎えたが、明治〜大正の間に解体されたと考えられています。中に入れるので、入ってみます。

水戸城主の移り変わりが載ってますね。

水戸徳川家しか認識してませんでしたが、

大掾氏➡︎江戸氏➡︎佐竹氏➡︎水戸徳川家 と

城主が移り変わって来たんですね真顔

水戸城の縄張りはこんな感じになっています。

先ほどみた大手門は三の丸と二の丸を繋ぐ橋です。

(③)橋を渡ってすぐにある⑦が彰考館、二の丸の角にあるのが、今見ている二の丸角櫓(④)です。

数字見えづらいですけど、⑥が三階櫓があった場所で、本丸の①が薬医門のある場所です。

大手門大棟鬼瓦

猪之目が可愛い❤️

軒丸瓦

軒丸瓦作り体験とかやってる城ないのかなー

こういうの見ると作りたくなるニヒヒ

櫓内部はこんな感じになってまーす。

左側にちらっと映る門扉が気になった方もいるとおもいますが、この門扉は水戸城の建造物復元プロジェクトのきっかけとなったものなんです‼️

坂東市万蔵院でこの門扉が発見され、平成21年(2009年)に水戸市に寄贈されましたが、寺では水戸城の大手門の扉だと言い伝えられていたそう真顔

元の大きさで復元されたと言われている大手門とくらべるとかなり小さいので、城内の別の門だと思われますが、この門をきっかけに水戸城大手門復元の会が結成されるなど、機運が高まりました。

次は薬医門を見に行きます💨

こちらも堀がすごいなぁ
下に通っている線路は水郡線です🛤

茨城県立水戸第一高校の敷地内となりますが、薬医門周辺の見学エリアには立ち入る事ができます。

薬医門
水戸城唯一の現存建築物で、本丸の橋詰御門だったと考えられています。

趣きがあるなぁ


裏からだとこんな感じ

二の丸展示館に立ち寄ってみました。

「大日本史」が展示されていました照れ

あと発掘された三つ葉葵文軒丸瓦なども展示されてます。



水戸城の模型

最後に徳川光圀の生誕の地へ寄ってみました。

水戸駅から10分くらいの場所ですが、他に誰もみてる人はいないし、ガイドブックとかにはあんまり載ってないんですが、おすすめです。

三階櫓の銅像が上に乗っかってますね!

横に徳川光圀像が建ってます。

逆光で見えにくいですが、ドラマからイメージするザ•水戸黄門✨の格好してます。

その近くにある義公生誕の地、水戸黄門神社✨


初代藩主徳川頼房の第三子で家老 三木仁兵衛之次の邸に生まれた徳川光圀。どうやら正室を迎える前にできてしまった子供なので、堕胎するように命じられたが、家老の三木仁兵衛之次がその女性を保護して、内密でここで産ませたということのようです。

昭和47年に三木家の子孫である三木啓次郎氏が、松下電器の松下幸之助氏を援助していた援で、松下氏の協賛を得て、祠堂が創建されました。

ここでちょっと無理かなーと思っていたお願い事をしたんですよね。大したお願い事じゃないんですけど、ANAのマイルで姉家族がいるハワイに行く申し込みをしていたのが、空席待ちとなっていて多分無理だなーと思って諦めてたんですが、お願いした翌朝に座席確保のメールが来て、黄門様が叶えてくださったのかなと思いました。ありがたやー✨

という事でこれから用事があって、ハワイに行って参ります🌺6/14に日本城郭検定1級受けるんですけど、そんな感じで全然勉強出来てません滝汗

日本城郭検定受ける方、一緒に頑張りましょうニヒヒ



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