川越城に寄り道して参りましたー照れ
また行きたいなぁと思っていたので、急に訪れるチャンスが訪れてウキウキ🎶
川越駅から周遊バスに乗って気づく🚌
なんか人出がやばい滝汗7月の4連休中だったので、観光客がわんさか!まぁ私も観光客ちゃ観光客なんですけどね!w特に蔵の町と氷川神社は若者が沢山で、コロナ前とほぼ同じ位の人がいましたニヒヒ


そんな私は誰も降りはしない市役所前でバスを下車してw大手門跡の石碑を写真撮りました🤳

そして太田道灌像もバッチリ写真撮りましたよ🤳

1457年に扇谷上杉持朝の命を受け、太田道真・道灌父子によって築城された川越城(河越城)🏯

右手に持っているのは、山吹の花真顔


「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」の歌の花は結構有名ですよね?

雨が降って来て蓑を借りようとしたが、その家の女は山吹の花を差し出すのみ。それに怒って帰ってしまった道灌。貧しい家で蓑さえ無く、みのひとつなきぞ悲しきかけていたという事を気づく事ができなかった事を恥じ、その後道灌は歌道に精進したそうです。山吹は川越市の花となっています。

市役所から少し歩いた所に中ノ門堀跡があります。

江戸時代になると川越城は江戸城の北を守りとして重視されました。寛永16年に城主となった「知恵伊豆」事、松平信綱が城の大規模な改修を行い、近代城郭の体裁を整えるに至りました。中ノ門もこの時に建てられたと考えられています。

ちなみに今は冠木門が建ってますが、当時は2階建ての櫓門だったそうです。

しくみの説明が結構分かりやすいです。
市役所方面から攻めてきた敵は堀に阻まれて直進できず、図のようにカクカクと曲がって行くしかなく
、攻撃されてしまう。万が一堀に降りて上がろうとしてもその深さと勾配で上がれない滝汗

こちらが中ノ門堀

右側の勾配が30度、左側は60度。

左側が本丸がある方面なので、敵が本丸目指して市役所側から攻めて来て30度の坂道を下って来ても、60度の土塁が壁のように聳え立っており、しかも正面の土塁上の塀の狭間から弓矢で攻撃を受けてしまいますニヒヒ

中ノ門堀跡から本丸御殿までは遠いかなぁと思ってましたが、意外に歩いてすぐでした。

こちらは中ノ口という、正面玄関に比べて間口2間半の一回り小さな規模の玄関です。

正面玄関です。

日のあたりが眩しくてはっきり撮れてないのが残念チーン銅板葺の唐破風屋根と霧除け庇がつき、間口19間、奥行5間の規模の豪壮な建築となっています。

左右に櫛形塀が並んでいます。

葵の紋の金箔
2008年から約2年半かけて行われていた保存修復工事の際に、金箔も張り替えられたので綺麗です。

現存する御殿は二条城二の丸御殿、掛川城の二の丸御殿、高知城本丸御殿と川越城本丸御殿の4例のみ。本丸御殿については高知城と川越城のみとなり、かなり希少です。

ちなみに後ろには童歌「通りゃんせ」発祥の地、三芳野天神があります。三芳野天神は城内の天神曲輪にありましたが、城下の人々も唯一使用が許された清水門から入って細道を通れば参拝はできたそうです。工事をしていて迂回をしないと行けなそうだったで、行きませんでした。

当初の御殿は将軍の来訪用の御成御殿で、城主の居館は二ノ丸に設けられていましたが、1846年に焼失し、当時空き地になっていた本丸に御殿を再建。城主の住まいの他に政務を行う場や家臣が常駐する部屋も設けられました。
現在するのは赤線で囲まれた部分のみ。
1025坪余りのうち165坪分(敷地面積で1/8、建坪で1/6)しか残っていません。
上の離れた所にあるのが家老詰所。
繋がっている長い廊下をなんとなく覚えておいてください(あとで跡が出てきます)
家老詰所は県内の星野家に移築されていたが、移築復元され、今は本丸御殿に続いているようになっています。本来の位置は川越高校の敷地内にあたります。
こちらは使番詰所
そういう言えば、廊下の写真撮り忘れました💦
床の材質が場所により異なっており、東はけやき、西が栂が用いられているそう。
あと戦後に屋内運動場として使用されていた時期があり、廊下の天井にボールあとがあるらしいです。
あー見たかったぁ笑い泣き見忘れたぁ〜
先程の案内図で明治棟とかかれている部分は明治以降に県庁などとして利用されていた時に建てられたものと考えられています。
この建物の中には保存修理工事に関する展示があり、正面玄関に付いているものと交換された葵の紋所瓦も展示されていました。
先程本丸御殿から家老詰所まで長い廊下があったと思います。この案内のオレンジ?の丸部分が廊下の柱がった位置だそう。

丸瓦分かりにくいですが、一線上にあるのが分かりますね。右側の建物が家老詰所です。

元々直接繋がっていた訳では無いので、右に写っているすのこを渡って家老詰所に行きます。
こんな感じになってます。
廊下
この左の部屋に入ったら、中学生らしき少年たちがカードゲームしててびっくりしましたニヒヒ
わざわざ入場料払ってやってきて、フリースペースとして使っているのか?それとも夏休みで見学にきて、休憩がてらカードゲームしているのか?🤔
結構居座ってる感あって、おばあちゃん家?と錯覚してしまう位だったので👵🏼前者かなと思います。
地元の人々に愛されているという事にしておきましょうw
人形が登場してびっくりポーン
この部屋にもカードゲームする少年達がいるのかと思いましたニヤニヤ
3人が見ているのは品川台場の絵図ですよね。
幕末、川越藩は江戸湾防備を任されていました。
ちなみに担当していたのは第一、第二、第五台場でした。なんやら相談をしているようです。
家老詰所には便所があります。
2カ所あります🚽
本丸御殿に戻りました。
こちらは36畳と御殿内で二番目の広さを誇っていた座敷。
仕切りの杉戸絵111面が残っています。
ここで私が大好きなドラマ「大奥」に出てくる、春日局の使っていた部屋がある寺の存在を思い出す滝汗15時45分位。ググって見るとその喜多院は徒歩15分ほど。16時までと記載されているニヒヒ
ギリギリ入れてもらえるとかある?でも走るような体力ももう無いチーンでもなんだか諦める気が起きず、とりあえず行って見る事に。めちゃくちゃ焦ってあるいていると富士見櫓跡の石碑に遭遇ポーン
この上に富士見櫓があったようです。
喜多院行くの諦めて富士見櫓跡を見に行こうとも思いましたが、危険とロープが張られていたのでやめました。川越城には天守がなかったので、いくつかあった櫓の中でも高さがあった富士見櫓が天守代わりとなっていました。
喜多院は徳川家康のブレーンだった天海僧正が住職を務めていたそうです。
葉っぱで隠れていますが、江戸城より移築御殿と
書かれています。全然下調べしてこなかったけど、そうなのポーン大興奮!
三代徳川家光公誕生の間!!
春日局化粧の間!!
16時半までで最終入場が16時!なんとか間に合いました照れ見る時間が限られちゃってますが、見れるだけ大変ありがたい✨
寛永15年の川越大火で現存の山門(写真撮り忘れ💦)以外堂宇は全て焼失。三代将軍家光が復興にかかり、江戸城紅葉山の別殿を移築し、それを客殿、書院にあてました。その為、家光誕生の間や春日局の化粧の間がある訳です。おじいちゃん大好き家光が天海の為に別殿を移してあげたんですね真顔
下の方に絵が描いてある仙波東照宮
元和2年に家康が没し、遺言通り駿府から日光へ移送する途中、天海僧正によって喜多院で4日間の法要を行ったことから寛永10年に建立されました。
完全に見忘れニヒヒ
春日局根付を購入しました✨

急遽立ち寄る事になり、じっくり見れなかった&見忘れも結構あったので、そのうちまた改めて川越に行きたいと思いますデレデレ




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