こんばんわ。
連休は、近隣の県にある実家で、家族4人でゆっくり過ごしました。
年々、活発になっていく子どもたちと、年々老いていく両親の姿に、時の流れを感じるようになりました。
この春には、5番目の孫が生まれる両親にはこれからも元気でいてもらいたいものです。
昨年は、最愛の祖母が96歳で亡くなり、僕自身が8年前にうつ病で自殺未遂を起こして以来、否が応でも”死”について考えざるを得なくなりました。
今回書きたいのは”死後の世界”についてです。
結論から言うと、僕は、死後の世界を信じています。
宗教的な意味でもなく、ただ、僕の素朴な世界観として。
”人としての存在”は死をもって消えると思いますが、物質的には、荼毘に付されて骨と煙と化してもこの世に残ると考えます。
ここに”意識”の問題が残りますが、物質としてこの世に残るのであれば、何らかの形で”意識”がそこに生じる可能性もゼロではないと考えているのです。
オカルトや超常現象としてのニュアンスは含めず、純粋に可能性の問題として。
話が込み入ってくる前に、僕がこう考えるに至った経緯を振り返ります。
多くの人もそうかも知れませんが、僕は幼き頃、”死”というものをとても恐れていました。
自分がこの世から消えてなくなることが怖くてたまりませんでした。
その恐怖は、長く僕の心の中に留まっていました。
”この世界はどんな構造になっているのか”
”命の起源はいつの時代のことなのか”
”人はなぜ生きて、なぜ死んでいくのか”
そんな根源的な問いは、僕に、「理論物理学」「進化生物学」「哲学」「量子論」など、様々な分野の学問に向かわせました。
僕が最終的に、”作業療法士”という、医学や人間の一生に関わる職業にたどり着いたのも、こうして考えると必然と言えるのかも知れません。
そして、8年前にうつ病を発症して、本当の意味で、”死”と向き合ったとき、僕は救いを求めて、仏教や古代インドの宗教に関する本を読み漁りました。
そして、長い人類史の中で、我々の祖先がどのように死と向き合い、その恐怖を乗り越えてきたかを学びました。
僕の死生観に決定的な影響を与えたのが、インドの偉人であるパラマハンサ・ヨガナンダ氏の自叙伝『あるヨギの自叙伝』という本です。
今でも、道に迷いそうになったら、本棚からその本を取り出してお気に入りの箇所を読んだりします。
古代インドの宗教指導者は、物質としてこの世に現象している期間は、あくまで魂の長い旅路のうちの、一工程であると考えました。
物質としての肉体が役目を終えると、我々は魂だけの存在となって、次の旅路に出ます。
その果てにどこに行き着くかは、まだ僕の理解が追いついていません。
この本に出てくる物語は、ただの宗教のヨタ話ではなく、可能性の提示という形で、読者にいろいろなことを問いかけてきます。
この本に出てくる数々のヨギ(ヨガの実践者)の姿に勇気づけられ、それまで培ったいろんな学問の知識が、僕のオリジナルの死生観としてまとめ上げられて、上記のような思想に結実したんです。
今、僕は、死など恐れていません。
死んだ愛猫たちも、死んだじいちゃんばあちゃんも、亡くなった恩師も、みんな体が亡くなっただけで、永遠に存在しているし、僕が死んだとしても、その人たちと同じく次のステージに行くだけなんです。
生きる目的もあります。
それは、肉体が役目を終えて次の旅路に出るときにできるだけ綺麗な魂として旅立つことです。
その為に、僕は、今いるこの世界で、自分の魂を可能な限りピカピカに磨き上げたいんです。
弱い人間だし欲望に負けるときもあります。
人を妬んだり、恨んだりしてしまうこともあります。
それでも、自分に正直に生き、自分の使命を果たすために、日々を丁寧に生きていきたいんです。
僕の一生は、まだ見ぬ死後の世界への旅立ちに向けた準備と言えるでしょう。
こんなことを語るとヤバい奴だと思われるかも知れませんが、これが僕の死生観です。