ジッドゥ・クリシュナムルティという人の年取ってからの動画をみてたら名言集もあったので、そこから何か一寸ひらめいたので、それについて……
ある事と知る事は違う。作る事もまた知る事とも在る事とも違う。
在る物はあるし、無いものは無い。
そして在る物は在るが如くに唯そのままある。
知ろうとする人は最初から間違っていて、誰かに教えてもらうならば人の思うままに動く事に繋がるので誰かへの依存や崇拝、それと権威の様なものでの洗脳であり、それがないと動けないのならプログラミングで動く機械にしかなれない。
キリスト教というか西洋は、知る事か教えられる事によって個人が動いてるような気がする。
何もない場所では、陰がきわまれば陽に変じるという正しさの無さからは何でもありで都合よく作り出す事で物事が進んでいく。(支那・朝鮮などはこんな感じ。金 正恩が側近を処刑するときなど)
今の日本はキリスト教的になっているけど、もとは在る物をそのまま在るとする国だろう。
在る物は言語ではなく感覚で感じる事が出来るのだが、そこから言語を使って思考をする時に自由でない部分まで自由だと思い込んでいる人は言語化するときに幾らか都合よく変換してしまうので、そこに在る物を正しく見れる人は少ないのである。
人権なら人権は大切と教えられた人は自分の経験の中からそれを当てはめ大切である事を適当に理解した気になり、それによるプログラミングの範囲で生きる。本人は自分で考えて行動してると思うだろうけど、そうではない。人権というものの元を辿れば、それが悪い物であることが分る。防衛のための予防殺人なのだから悪い物である事は事実で、そういう見るのが嫌な物を見る本当はそこから自分で考える事が始まるのですよ。自分が生きるために先に他の人を殺す必要はあるが、それを皆が国家や政府に預ける事で、その社会では予防殺人をしなくて良い事になる。しなくて良い状況がその社会にあっても、その必要が出る場合もあるがコレは中の人がどれだけ分っているか? その理解の深さの問題だろう。
今の日本でも予防殺人への理解は低いが、日本人の場合はプログラミングされてない事はしないだけで、世界観が人に迷惑を掛けないとか要ら無い事はしない言わないぐらいで思考が固定されているだけなのだが、まるで民度が高いように見えてしまうのがこれの困った所なのである。
歴史も本来の在った事という意味での歴史であるならば、その場に在った事が歴史なので後の人はそれを見る事はできないが歴史観として持つときにいかに正しい物を持っていられるかが大事となるだろう。西洋史観や支那・朝鮮の捏造歴史から物事を考えてる割には、なぜか日本人の在る物を正しく見る力が少しは残っているようなので、それは凄いですね。
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