置屋とは仕込みさん・舞妓さんの生活の場
置屋とは、主に仕込みさん・舞妓さんが所属して生活する場のことを指します。
置屋には、単に生活の場としての役割もありますが、そのほかに舞妓さんの見習いとして住み込む「仕込さん」を受け入れ、立派な舞妓としてデビューさせることも役割です。また、舞妓さんとしての年季が明けて、芸妓さんとして独立することになった場合もサポートします。
仕込さんは、中学卒業直後で15、6歳という未成年の女性であるため、置屋の「おかあさん」と呼ばれる女将さんは保護者として責任をもって生活すべての面倒をみます。
いうまでもなく、仕込さんや舞妓さんに、です。 のしきたりや礼儀作法を教えるのもおかあさんの役割京都のです。 の伝統や品格を保ちつづけるには、置屋のおかあさんの力が不可欠
さらに、芸舞妓さんは各自が所属している置屋から、お客さんの待つお茶屋へ向かうのですが、ここでも「おかあさん」は、お茶屋からの予約を受けて、芸舞妓の仕事のスケジュール管理全般を担っています。置屋のおかあさんはいわば、芸能プロダクションの社長であり、芸舞妓の母親でもあるといえるでしょう。
お客さんがお座敷を楽しむためには、置屋を介して舞妓さん、芸妓さんを呼ぶ必要があります。置屋の存在なしに、京都の花街は成り立たないということがおわかりいただけると思います。
本能寺とは、法華宗(本門流)の大本山であり、洛中法華二十一カ寺本山の一つです。日隆が応永22年(1415)に油小路高辻に創建した本応寺が前身となっております。
歴史上にも名高い「本能寺の変」の舞台となった本能寺は、実は現在の本能寺がある場所ではなく、蛸薬師西洞院のあたりにあったときに起こりました。その名残として、かつての本能寺跡の石碑が蛸薬師小川交差点南西角に建てられています。
日本の歴史上でも屈指の人気を誇る織田信長が、1582年の「本能寺の変」の際に自刃した場所として有名な本能寺。2020年に大河ドラマが放映された影響もあり、一躍脚光を浴びています。
他の場所では中々目にすることのできない、「織田信長」や「明智光秀」に関係する展示品が多く納められています。京都でも貴重な、歴史の「転換点」となった舞台で、戦国時代の風を感じてみてはいかがでしょうか。
「本能寺の変」の際に、「是非に及ばず」の言葉と共に織田信長が火を放って自刃したことは有名な話ですが、実は本能寺の焼失は過去に5度起こっています。その理由は別門の仏教徒との抗争であったり、戦乱に巻き込まれるなど様々です。
しかし、何か大きな事件が起こるたびに必ずと言っていいほど火災が起こるのが、本能寺の不思議なところです。そのため現在の本能寺では「能」の「ヒ(火)」の文字を嫌い、異体字である「䏻」が使用されています。
浄土宗の総本山
知恩院は、宗祖法然上人が1175(承安五)年、吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、入寂された遺跡に建つ浄土宗の総本山。第二世源智上人により基礎が築かれ、徳川家康、秀忠、家光らの外護により現在の壮大な伽藍が形成された。
境内には、国宝の御影堂や三門、重要文化財の勢至堂、集会堂、大方丈、小方丈、経蔵、唐門、大鐘楼など文化財指定建造物が建ち並ぶ。
三門は1621(元和七)年に徳川秀忠によって建立された日本最大級の木造二重門。法然上人の像(御影)を安置する御影堂は、1639(寛永十六)年に再建された中心的堂宇で、令和2年4月に約9年間にわたる半解体修理が完了した。紙本著色法然上人絵伝(四十八巻)、絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図、上宮聖徳法王帝説(いずれも国宝)など多数の文化財を蔵する。
高さ24m・横幅50m・屋根瓦約7万枚と、日本最大級の規模を誇る木造門。1621年、徳川2代将軍秀忠公の命で建立されました。上層部の桜上に登ることができ、祇園エリア一帯の景色をご覧いただけます。
楼上内部は仏堂となっており、重要文化財の仏像が安置。天井や柱・壁などには迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、飛龍が極彩色で描かれています。
浄土宗の開祖「法然上人」の御影(みえい)を祀ることから、「御影堂(みえいどう)」と呼ばれています。内部の仏具は金装飾に彩られ、神秘的かつ荘厳な造りとなっております。
現在の御影堂は、1639年に徳川家光によって再建され、間口45m・奥行き35m・幅3mの外縁をめぐらした巨大な伽藍となっています。お念仏の根本道場として、多くの参拝者を受け入れてきました。
知恩院に古くから伝わる七不思議をご紹介します。
諸堂修理中につき、実物は非公開とさせていただいているものもあります。
七不思議1鴬張りの廊下 -仏の誓い
御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に至る廊下は、全長550メートルもの長さがあります。
歩くと鶯の鳴き声に似た音が出て、静かに歩こうとするほど、音が出るので「忍び返し」ともいわれ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担っているとされています。
また鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえることから、不思議な仏様の法を聞く思いがするともいわれています
七不思議2白木の棺 -不惜身命
三門楼上に二つの白木の棺が安置され、中には将軍家より三門造営の命をうけた造営奉行、五味金右衛門夫婦の自作の木像が納められています。
彼は立派なものを造ることを心に決め、自分たちの像をきざみ命がけで三門を造りました。やがて、三門が完成しましたが、工事の予算が超過し、夫妻はその責任をとって自刃したと伝えられています。この夫婦の菩提を弔うため白木の棺に納めて現在の場所に置かれ、見る人の涙を誘います
七不思議3忘れ傘 ―知恩・報恩
御影堂正面の軒裏には、骨ばかりとなった傘がみえます。
当時の名工、左甚五郎が魔除けのために置いていったという説と、知恩院第32世の雄誉霊巌上人が御影堂を建立するとき、このあたりに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなるので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいと依頼し、それが出来たお礼にこの傘を置いて知恩院を守ることを約束したという説とが伝えられています。
いずれにしても傘は雨が降るときにさすもので、水と関係があるので火災から守るものとして今日も信じられています
七不思議4抜け雀 ―心をみがく
大方丈の菊の間の襖絵は狩野信政が描いたものです。紅白の菊の上に数羽の雀が描かれていたのですが、あまり上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれています。現存する大方丈の襖絵には飛び去った跡しか残っていませんが、狩野信政の絵の巧みさをあらわした話といえるでしょう。
七不思議5三方正面真向の猫 -親のこころ
方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるのでこの名があります。
親猫が子猫を愛む姿が見事に表現されており、親が子を思う心、つまりわたしたちをいつでもどこでも見守って下さっている仏様の慈悲をあらわしています。
七不思議6大杓子 -仏のすくい
大方丈入口の廊下の梁に置かれている大きな杓子です。大きさは長さ2.5メートル、重さ約30キログラム。このような大杓子はあまりないところから、非常に珍しいものとしてこんにちでも拝観の方が見上げます。
伝説によると三好清海入道が、大坂夏の陣のときに大杓子をもって暴れまわったとか、兵士の御飯を「すくい」振る舞ったということです。
「すくう」すべての人々を救いとるといういわれから知恩院に置かれ、阿弥陀様の慈悲の深さをあらわしています。
七不思議7瓜生石 -はげみ
黒門への登り口の路上にある大きな石は、知恩院が建立される前からあるといわれ、周囲に石柵をめぐらしてあります。
この石には、誰も植えたおぼえがないのに瓜のつるが伸び、花が咲いて瓜があおあおと実ったという説と、八坂神社の牛頭天王が瓜生山に降臨し、後再びこの石に来現し一夜のうちに瓜が生え実ったという説が伝えられています。また石を掘ると、二条城までつづく抜け道がある、隕石が落ちた場所である等、さまざまな話が言い伝えられている不思議な石です。
七不思議は
事前学習もなかったから
当日現地で携帯でポチポチって感じで
八坂神社は、全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする約2300の神社の総本社です。
厄払いや縁結び・美容などのご利益のある八坂神社は「祇園さん」と呼ばれ、各種お守りや油とり紙などが人気を博しています。
「祇園祭」が行われることでも有名で、京都観光の中心として広く親しまれています。
隣接する円山公園は国の名勝に指定されており、春には「祇園枝垂桜」を中心に、京都随一の花見スポットとして賑わいます。秋には近隣の清水寺・高台寺と共に紅葉の名
古くは祇園感神院、祇園社と呼ばれていました。現在、京都の花街として知られる祇園の名は、祇園社の門前町として栄えたことに由来しています。
京都の人々から長きにわたって崇敬を集める八坂神社には境内に20社近いお社があり、厄払い・縁結び・美容などのご利益をいただけます。
昔からの伝統的な姿を残す八坂神社周辺の街並みは、現代において歴史を肌で感じることのできる貴重な空間として人気を博しています。