むかしのバルドラの野原に
一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。

するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。
さそりは一生けん命にげてにげたけど、とうとういたちに押えられそうになったわ。
そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ。
もうどうしてもあがられないで、さそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう言ってお祈りしたというの。
ああ、わたしはいままで、いくつのものの命をとったかわからない。そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。
ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。
どうか神さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてず、どうか この次には、まことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかいください。って言ったという の。 そしたらいつか蠍はじぶんのからだが、まっ赤なうつくしい火になって燃えて、よるのやみを照らしているのを見たって。

宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」より

2年を迎えようとする3.11の数日前、

夜遅くに仕事から帰宅したら、ちょうどTVで銀河鉄道の夜のドラマが放送されており、

なにげに、ぼーっとTVを観ていた。

銀河鉄道の夜は、子供の頃アニメ映画のビデオを観て、

中学生の時に文庫本を買い、何度か読み、

文章が美しかったので声に出しながら読んだりもした。

そのなかで一番印象深かったのが、バルドラの蠍だった。

何度も繰り返し読んでいた。

悲しいわけでも、切ないという感情でくくれるわけでもなく、

涙も出なかったが、

心の奥がふるえて、忘れられなかった。

今思うと、蠍の崇高な愛を感じて魂が揺さぶれたのかもしれない。

法隆寺に納められている玉虫の厨子に描かれた捨身飼虎図。

イエスの磔刑。

そこには、深い慈愛が感じられる。

見返りなど求めない、深い深い、広い愛。

哀しみが滲んだ、己の為の哀しみでなく、愚かで弱く愛しいものへの哀しみが込められた崇高な愛。

そんな愛を感じる。

そんな愛を想い、感じながら、3.11で奪われた命を、残された命を想い、

悼んでいた。












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