「でんでんむしのかなしみ」
作・新美南吉
一匹のでんでん虫が、ある日自分の背中の殻に、悲しみが詰まっていることに気づく。
自分はとても生きていられぬと、友人のでんでん虫に訴える。
友人はあなたばかりじゃない、私の背中の殻にも満ちていると言う。
別の友達に聞いても同じ、別の友だちに尋ねても答えは変わらぬ。
そこで初めて気がつくのである。
悲しみは誰もが持っているのだ、自分だけではない、私はこの悲しみをこらえていかねばならない。
でんでん虫は嘆くのをやめた。
私が読書登録をしているhiro-sanの「人の心に灯をともす」というblogの記事の中で
「よく耐えてこられましたね」のタイトルの記事がとても印象深かったので、引用させていただきました。
その記事では、美智子皇后の大慈大悲の深い慈悲の心が書かれていました。
タイトルの「よく耐えてこられましたね」は、美智子皇后が被災地の方達にかけたお言葉です。
「安岡正篤師の「酔古剣掃」で
『愛という字は「かなし」と読む。
本当の愛は必ず悲しみを持つ。
深い哲学になるかもしれないが、母のことを悲母と言い、大慈大悲の観世音菩薩と言う。
人間は、この愛しみの心を持たないといけない』
観世音菩薩は、慈母観音とも呼ばれ、大慈大悲という大きな慈悲を与えたもうという。
慈悲とは、いつくしみ、あわれむことであり、なさけでもある。
そこには、人の痛みや悲しみを我がこととして受け止める大いなる愛がある。」
この記事を読んだ時、
様々な思いが頭をよぎりました。
これは、決して誰もが悲しみを背負っているのだから、嘆いてはいけないと言っているのではないのです。
悲しい時、苦しい時は嘆き苦しんでもいいんです。
私自身も、出口の見えないトンネルを延々と光を求めて、ただ前を進んできて、
その道程では、苦しみと悲しみがたくさんあって、歩くのに…前に進むのに疲れてしまって希望なんて見えなかった。
絶望のどん底にいると自分だけが苦しみを背負っていて、自分以外の全ての人達が幸福に見えた時もありました。
でも、そんなどん底の中で私は変えたいと強く思いました。
今の状況を変えるには自分が変わるしかないと、差し伸べられた手を必死で掴みました。
勇気を持って、堅い扉を一つ一つ開けていくような感じでした。
そして、気づくと私はトンネルの外にいました。
陽の当たる、青空の見える場所。
そして、周囲を見渡すと幸福そうに見えた人達が、それぞれに様々な悲しみや苦しみを背負って生きている事が分かりました。
あの、でんでん虫のように自分が恥ずかしくなりました。
だから、私がこれまで経験した悲しみや苦しみや受けた傷は、決して無駄でも無意味でもなく、必要だったのだと感じました。
人の痛みを我が事のように感じ取る為に…
神様に感謝しました。
まだまだ、幼子のように未熟な自分だけれど、
少しでも苦しみと悲しみの暗闇から抜け出せない人達に手を差し伸べられたらと思っています。
出来る事は限られているけど、少しずつ少しずつ努力しながら。
