まず話はザ・ピーナッツまで遡らなければならない。
と言っても、今の30代以下の世代にはザ・ピーナッツ自体を知らない人も多いかと思います。
何しろデビューが1959年ですからねー(;^_^A 
僕もかろうじて「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」で現役最後の頃しか知りません。


ま、詳しくはWikiで見てもらうとして・・・
一言で言えば、もの凄く歌が上手くて国民的歌手になってるマナカナを想像してみて下さいw


彼女達の代表曲の動画を見つけたので貼っておきます。これらは聴いた事あるんじゃないでしょうか?
ちなみに引退表明後最後のTV出演映像です。





もしこれでも『知らない』という人には、こっちならどうだ!ww





ザ・ピーナッツは75年に引退するまでに、海外にも進出。
何と「エド・サリバンショー」や「ダニー・ケイショー」にも出演してたんですね。
またドイツの番組にも出たり、それ以前からイタリアの曲のカバーも歌ったりと
ヨーロッパでも名を知られていたそうです。
つまり洋楽のエッセンスを本格的に取り入れたグループの走りだった訳ですな。
育ての親である宮川泰氏のセンスが光ってたんだと思います。

さて、この記事では昭和歌謡史を紐解くのが目的ではないので(そんな知識もないし)
こうした話はもっと詳しい方に譲りましょう。



肝心の大里洋吉氏はといえば、1969年ナベプロ入社。
いつからかは分かりませんがザ・ピーナッツのマネージャーに付く事になります。
その頃のマネージャー陣は、ナベプロ内の幹部候補が選ばれていたそうなので
やはり最初から優秀だったんでしょう。
またここで重要なのは、彼女達の洋楽志向の音楽性とその成功例を
身近で体感していたという事です。








 ところでザ・ピーナッツは72年頃から現役引退を検討していたと記録にあります。
その年の4月、スクールメイツ出身の女の子3人がNHKの新番組「歌謡グランドショー」
のマスコットガールとしてメディアに表れ始める事になります。

彼女達は番組プロデューサーから『食べてしまいたいほど可愛い女の子達』という意味で
「キャンディーズ」と名付けられていました。(理由を聞くと背中が痒くなりそうだw)

その時点ではまだ歌手デビューの予定はなかった彼女達に目をつけてレコードデビューから
プロデュースをしたのが、当時渡辺音楽出版にいた松崎澄夫氏。
(後にアミューズ副会長やアミューズソフトエンタテインメント社長を務めた方です。)



1973年「あなたに夢中」でキャンディーズはレコードデビュー。
確か初披露は、少し前からレギュラー出演中の「8時だョ!全員集合」だったはず。
中学生だった僕はリアルタイムで観てました。

そして彼女達のマネージャーにはピーナッツのマネージャーでもあった諸岡義明氏や
大里氏も関わる様になる訳です。

ただデビューしたものの、4作目の「なみだの季節」までは正直あまりパッとしませんでした。
(「危ない土曜日」はスマッシュヒットと言って良いかと思いますが)

5作目「年下の男の子」でセンターを、諸岡義明氏のアイディアでそれまで務める事が
多かったスーからランに替えたのも当たり、初めてオリコンベストテン入りを果たします。
この曲は彼女達にとってのポリリズムと言って良いでしょうねw
振り付け的にはチョコに似た所もありますが・・・(^~^)




キャンディーズは最初こそ『ザ・アイドル』という感じでしたが、途中から当時としては
画期的なサウンド志向を見せ始めます。

象徴的なのが74年から専属のバックバンドMMP(ミュージックメイツプレイヤーズ)が付いた事。
強力なホーンセクションが加わった事も一因かと思いますが、徐々に楽曲がフィリーソウル寄りに
なっていきます。
ライブではバリバリのソウルカバーまでやってましたしね。

あれだけ洋楽的な音をやってたアイドルは他にいなかったですねえ。とにかく異質でした。
この辺がPerfumeとも共通する点の一つでしょう。

そして今思えば、マネージャー陣の影響が大きかったのではないかと思われるのが
ザ・ピーナッツのカバーもよくやってた事です。実際カバーのレコード収録も残してます。
コーラスに拘り始めたのもそれがあったかもしれませんね。


その一例がこれ。『キャンディーレーベル』より。






一説ではザ・ピーナッツの後継者はピンクレディーとも言われますが、音楽面では
間違いなくキャンディーズだったと僕は信じています。
そしてそれを押し進めていたのがマネージャー陣を含めた現場スタッフではなかったかと。

まさにTeamCandiesという感じだったんじゃないかと想像してます(^_^)v








つづく