その人が自分にとって身近か否かは関係なく、憧れている人と話すとき、心が硬直してしまって、常にその人から好く思われようとしてしまう。
ピースの合わない変な会話を展開したり、カラ回りしたり、、、
とにかく自分以外の人格が勝手に選んだ勝手な単語が、腹からではなく喉元からペラペラと出てくる。
そういう現象を共感してくれる友だちが、そのことを「会話の綱渡り」という風に表現していてすごく合点がいった。
本当にその通りで、(ここからは僕の解釈だけど、) 相手への憧れが強いほど綱の上でのバランス感覚は落ち、そして地面からの距離は高くなる。
歩き方はもちろん、そんな綱の上ではカカシみたいに両手を広げてしまっているものだから、普段の自分の手グセや頬の筋肉の神経伝達まで全て制御されてしまう。
そう、そして、だから、そのようにして、自分が憧れていれば憧れているほど、その相手から見た自分は、本来とはかけ離れた存在なのだと考えると、心底、ツライ。
そういう人と話すときこそ、踵をしっかり地面につけて落ち着いていたい。
僕が心底憧れている中でも唯一、踵をしっかり地面につけて腹から会話できる相手が、うちの店長だ。
いつもこの感じを自分に染み込ませたいと思っているのに、硬直しがちな心には全く染み込まない。
この息遣いで、あの先輩ともこの後輩とも隣の友だちともコミュニケーションを取りたいのに、僕の肺は何者かに乗っ取られ、安全装置の電源をブレーカーごと下ろされる。
なぜなのか。
本当に悲しい。
憧れている人と対等に話したい自分よりも、好く見られたい自分以外の人格が勝ってしまう。
人の印象ってなかなか変わるものじゃない。
「好意をもたれているのは分かるけど変なやつ」
で終わってしまっているのだろうと、そこから変わることはないのだろうと、そう思うことが本当に悲しい。
そしてそうやって我に帰るたび、憧れている人とは知り合い以上の関係にはなりたくないと、そんな拒絶反応が出る。
でも、実際にその人を目の前にすると、まあ気になって気になって仕方がない。
尊敬するだけでいい、憧れなくていい、それだけなのに。
好い顔するのはよしたい。
良い顔だけしていたい。
綱の上では、走って終点に辿り着くこともできなければ、当然、綱の始点に戻って等身大の自分を取り戻すのにも骨が折れる。
綱をそんな使い方しているのは自分だけで、他の人たちは少し遠く、その綱でハンモックを作り、目を閉じ揺られながら談笑している。
僕もそっちに行きたい。
「ハンモックの作り方を教えてください」が言えない。
談笑を割って入ってまで教えを請うことはできない。
この孤独で頼りない綱の使い方が分からない。
