ベートーヴェンの交響曲第一番は、ちょうど彼が30代に入る時期に書かれている。この交響曲について世の人は、「ベートーヴェンらしさの片鱗は見えるものの、まだモーツァルトの影響から抜け出せていない」と言い、「後の、特に第三番以降に比べれば、まだベートーヴェンのシンフォニストとしての個性は確立されていない」などという。
 私自身、さるオーケストラのお手伝いで半年間この曲と向かい合うまでは、先述のいわゆる世間の評価に暗黙に同意していた。いや正しくは、この曲にそれほど魅力を感じていなかった。 しかしこの曲のスコアをめくり始めるとすぐに、あるアイデアが頭に浮かび、それがこの曲の未知の側面につながるアイデアであるような手応えを感じられたのだ。そのアイデアとはこうだ。

 かの大作曲家ブラームスは、若くしてベートーヴェンの後継者と目されながら、それゆえに一つ目の交響曲を上梓するまでに数十年もの時間を、「ためらい」を必要とした。では、ベートーヴェンはどうだったか。ベートーヴェンにとって、ハイドンとモーツァルトが確立した、とりわけモーツァルトによって完成された交響曲という偉大なジャンルに足を踏み入れる事は、やはり並大抵な事ではなかったのではないか。特に晩年に「さらり」と書かれた三曲の交響曲、中でもジュピター交響曲の崇高な完全さ、美しさと知性は、それに挑む若者にとっては途轍もなく大きな壁であったのではないか。そんな直感が私の頭を支配したのである。

 ベートーヴェンはそもそもモーツァルトと同じく、ピアノの即興演奏の達人であったから、おそらくモーツァルト同様に即興的に作品を書くこともできたはずである。しかし、彼は原則としてそれをしなかった、少なくとも交響曲においては。何故か。トラウマやコンプレックスを持つものは、自分の直感を100%信じる事ができないものだからである。ベートーヴェンの場合はどうか。おそらくモーツァルトこそが彼のコンプレックスとトラウマの対象(ハイドンは、おそらくそれに当たらない)だったのではないか。そしてそれが彼に交響曲の作曲をためらわせていたと考えれば、この第一番の作曲にどれだけ重い意味があったかが、想像力の範疇に入ってくる。

 ではそんなベートーヴェンを、交響曲作曲へと突き動かしたのは何だったのか。巧妙心か。何かのアイデアか。私なりの回答は、年齢でる。そう確信するのはおそらく自分もまた、その時のベートーヴェンと同じような年齢にあるからであろうか。モーツァルトがジュピターを書いたのは、三十代初頭であった。もっとも、この天才モーツァルトにとって自分の年齢は、(本人が死期を覚っていたという過程の上で)死からの逆算という程度にしか、創作に影響を与えていないように思う。それは彼がクリエイターとしてのトラウマを、コンプレックスを持たない「最後の」作曲家だからであったと思う(つまりモーツァルトの後には多くの苦悩する作曲家が誕生した)。他方、モーツァルトがジュピターをしたためた「年齢」には、ベートーヴェンにとっては大きな意味があった。それは、同じ世代のモーツァルトが書いた作品に挑戦し、彼を凌ぐ作品を作り上げる事でのみ、彼がモーツァルトに植えつけられたトラウマ、コンプレックスから解放されうるからである。 かくして、三十代を目前にしたベートーヴェンは、おそらく見切り発車の状況で、交響曲第一番の作曲に挑む。あの、ジュピターと同じ、ハ長調という調性で、ジュピターと似通った主題さえ用いながら。・・・こうして書かれた第一番は、自らのトラウマとコンプレックスに挑むために書かれた、そしてそのトラウマとの戦いがまさに作品そのものに刻まれた、史上初めての(そして唯一の)ドキュメンタリー交響曲であるというのが、私の頭に浮かんだアイデアである。

 実際彼はこの第一番と、それを今まさに作曲している自分自身にすら未だ完全な信頼を寄せておらず、さらにはその事実を必死に拭い去ろうとしていたように感じる。第一楽章からして旋律の優美さ、構成の簡潔で効果的な配置という点で、かのジュピターに吾しえているとは言い難い。それは本人にとっても自明だっただろう。だからこそというべきか、その足取りには不必要な力みがある。第一主題に絡まる過剰な「鳴り物」を聴くと、人は自分のプレゼンテーションに自身がない時ほど、大きな言葉を使いたがるものだという普遍の真実に思い至らずにいられない。そしてまた、第一楽章の第二主題は一転してハイドンの借用とも思えるほど、あっけない。・・・ここまで、いいところなし。

 ところが、そののちの提示部の最後の部分で、突如ベートーヴェンは一つの「打開策」を見つける。それは、モーツァルトにもハイドンにもない、感情を叩きつけるようなトレモロだった。このトレモロはこの場面では実際問題、劇的な効果も、さしたる斬新さも感じさせてはくれないかもしれない。しかし、モーツァルトが水平方向へと、まるで流水のように自然に流していた音楽を、彼はこの音型で極めて不自然に、我田引水、あるいは自分の存在を強く宣言するかのように、その場につなぎ止めようとしたのではないか。音楽の流れを否定するかのように同じ音を連打し、それによって彼は音楽が本来持っている原始的な力、リズムの力を蘇らせたのである。

 そしてリズムの力をより一層力強く体現する「早い、踊れない三拍子」つまりはスケルツォ(の原型)が、第三楽章に登場する。この楽章においてベートーヴェンはついに、モーツァルトもハイドンも成し得なかった新しい表現スタイル、音楽形式を獲得したのである。同音連打によるリズムの強調は、後の第7番で「リズムの聖化」として結実するが、このスケルツォこそがそこへと繋がる始めの息吹といえる。そしてモーツァルト・ハイドンの「流れる=聴くための音楽」には決してない「リズムに乗せ、共感を呼び覚まし、熱狂と覚醒を促す」というこの作曲家の真の個性が、まさにこのときに筆先から放たれ始めたように思うのである。

 さらにこの“スケルツォ”楽章には「交響曲第五番第一楽章」の主題の原型すら現れる。それも偶然とは思えない。なぜなら彼の第五交響曲の第一楽章は、ソナタ形式をとりながら、「二拍子のスケルツォ」とでも言うべき全く前例のない楽章であり、ベートーヴェンは第一番でその発露を見た同音連打によるリズムの力、感情表現、スケルツォ、「聴く」音楽から「乗せる、共感する」音楽への転換を、より完全な形で示すべく、この第五番を創作したからである。

 交響曲第一番の第一楽章は、先述した通り、ジュピターの主題を意識的に借用して始まる。が、同時にこの楽章は、もう一曲、別の曲を我々に連想させる。それは彼が今一度ハ長調で書き上げた、そう、第五交響曲の終楽章である。ベートーヴェンは実質的に第一番で誕生したスケルツォを元に第五番の第一楽章を構想し、終楽章では今一度、第一番の第一楽章、あのモーツァルトへのトラウマとの戦いの中で、自分の個性を高らかに宣言した第一楽章を再度蘇らせたのである。

 そして第五交響曲は、短調に始まり長調に終わる「苦悩から勝利」の交響曲…つまりは作品を通じて描かれる「主体」の感情的な変化・進化を聞き手に共感させるという、大きな取り組みに成功した最初の交響曲である。それが実はモーツァルトのトラウマに始まり、自らの捨て身の挑戦の中で新たな境地に達したベートーヴェン自身のドキュメンタリーであるとするならば。そしてその前段として同じハ長調の第一番があるとするならば。この交響曲を語る言葉は、こんなものにはなりはしないか。

「第一番においてベートーヴェンは、モーツァルトの後期の交響曲からの強い影響によってその創作の契機を得るが、作中でリズムによる身体的・感情的な表現を確立し、その後の交響曲の基礎を築いた。そして同時にこの交響曲にはその創作課程におけるベートーヴェン自身の内面の葛藤を作品に投影されており、それは後の第5番において確立される「人間本位的な作風」、つまりはロマン的な創作の端緒となったともいえる。」

…というような事を書きたかったのだが、こんなにも字数を要するとは(笑)。
今日ツイッターで知ったニュースは、衝撃的でした。亡くなったその方は、凄いベーシストでした。

最初に彼を見たのは、その昔、オーケストラ連盟主催の関西合同オーケストラでの事でした。身重になりがちな臨時オーケストラの低音をぐいぐいと引っ張る、「アンサンブルする」感性でオーケストラを弾く人。衝撃でした。

その後、シンフォニエッタでもお世話になりました。いつでも音楽と音楽家への純粋な敬意と愛情は絶えることなく、好奇心と向上心は学生にも負けず…多くのお弟子さんに囲まれた毎年の講習会にも、いつか行きたいと思っていました。しかし、室内楽を愛するお嬢さんを残して、愛する自転車と共に彼は、旅立ってしまいました。

こういう時、私はまだまだ神の意志を汲み取れません。たった一つ、命の儚さと貴重さを教えてくれている事を除いて…
しばらくは、あなたの意に背いてでも、悲しみと寂しさに浸ることを許して下さい。

さようなら、素晴らしき音楽家、素晴らしきベーシスト。どうか安らかに。そして我々の未来を、その愛すべき笑顔で見守っていて下さい。

合掌。
音楽は音を楽しむ?

あまりにも流布している表現なので、みんなワザと間違っているのか?とも思うけれども、ひょっとしてそうではなかった場合のことを思うと訂正せずにはいられない、そんな話。

「音楽は音を楽しむと書きます。だから楽しみましょう!」

それは違います。

「楽」という字はもともと木の上に乗って太鼓を叩く姿を表した文字。
つまり、楽という字が音楽そのものを表しています。

邦楽、洋楽、雅楽。楽典。というように。

そして、楽しむという語は音楽が鳴ると楽しくなることから、
このように用いられるようになったのです。

ですから、これからは

「楽しむという字は音楽の楽という字を書くのです。だから楽しみましょう」。

と言うのが正しいです。

特に指揮者や指導者の皆さん、この間違いはちょっと恥ずかしいので気をつけましょうね(笑)。

年齢がゾロ目に迫り、ちょっと説教臭くなるB印でした。
横須賀まででかけてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管を聴いた。一昨年のキャンセルを経て、待望の来日公演で、しかもメンデルスゾーンとブルックナーのプログラムという事で期待は高まった。好天の横須賀は気分が良い!
前半プログラム、メンデルスゾーンの宗教改革は、決して耳なじんだ曲ではないが、開始数十秒で、鳥肌。弦のしなやかさ、それに寄り添う管のアンサンブル。フルートを金管が支える絶妙なバランス…このオーケストラの培ってきた機能は、あたかも一つの森のように活き活きとメンデルスゾーンを奏でる(屋久島に行きたいなー…)。特に三楽章の管楽アンサンブルの部分の美しさに、我を失いかける。和音が美しい!ロイヤルストックホルム管を聴いて以来の感覚-オーケストラという名の高性能アナログ・オルガン。そしてこの曲で四回指揮者を呼び出した今日の聴衆にも共感を持ち、嬉しくなる。
さて、ブルックナーは交響曲第四番。…実は、戦前から危惧していたのは、イタリア人の名指揮者、シャイー。放送などで聴く度に、このオケとの相性に疑問がわいていた…メンデルスゾーンがシューマンに聞こえるなど…もともと素朴で澄みきった、丁寧な織物のようなこのオーケストラを、しきりにカラフルにドラマティックにしようとしているかに思えて、違和感を覚えていた。自分の耳に、かつて聴いたブロムシュテットとの質実剛健、端正な演奏があるだけに、なおさら。特に彼のブルックナーは、想像できなかった。
危惧は、果たして、現実可してしまった。イタリア人特有の歌謡性、ドラマ性に傾倒するマエストロの力みがちなリードに、オーケストラが、持ち前の自然な、室内楽的な呼吸を乱され、音楽がしばしば迷走する。不必要な強奏を命じられて、持ち前の澄んだサウンドはザラザラとした雑音をたてる。素朴な神への祈りと自然への賛美を木訥に織り上げたブルックナーの交響曲は、皮肉にも彼が憧れていたワーグナーの楽劇のように雄弁に、そして地中海に洛ちる太陽のように苛烈に、その幕を閉じたのだった。 折しもバンベルク響のジョナサン・ノットも、彼らが既に手中に修めているブラームスで不必要に自己主張し、ゲンナリさせてくれた。名門オケには指揮者は不要。ただ客寄せと金集めができれば。それを再認識した。 …早く良い、骨太のの指揮者が現れないものかな?名門オーケストラたちが、アンサンブルの喜びを忘れないうちに…。
先日、ミハエル・リツキーという素晴らしいロシア人ピアニストを聴いて。ひさびさに思索が羽を広げて飛び回った。いつもながら荒唐無稽な自己満足論だが、まあ無学を笑って頂ければ幸い。
最近リツキーと同門のメジューエワという、これまた素晴らしいピアニストを聴いた。彼女の演奏は前半では「無愛想な演奏」とも思われたのだが、演奏会が進むにつれて音楽へのひたむきさ、スケール感に魅了されて、最後には「芸術とはいと高きところにあるもの」というメッセージを受けとった。
彼女と同じ思想を持つと思われたリツキーはまるで「無邪気に、一心不乱に神へと捧げる宗教画を描く者の姿を背中からみている」または「自然そのものが鳴っている」ようだった。さらに驚くべきは、シューマンプログラムで、ということだった。
そして、これまで「辛口、技術偏重、無味乾燥」という偏見から割合と苦手だったロシア人の演奏スタイルを「絵画的」という側面で捉える視坐をコンサート中に(笑)発見し、ようやく橋が架かった思いがした。それは同時に「」音楽は言葉のように語りかけるもの」という固まりかけた先入観が解きほぐされた瞬間でもあった。
ロシア人の演奏に流れる時間はキャンパスのような役割で、ドイツ・イタリア的な歌謡性や演説口調、物語、そもそも言語的な性格が希薄だと感じた。いやむしろ子音の独立性が低いロシア語の特徴だろうか?とすれば、フランス語は?
…濁音が多く響きの立体感にやや欠けるロシア語が水墨画(?)、鉛筆画のような印象なのに比べ、フランス語は濁音も軽やかなアクセントに近く、全体には地中海的な透明感・色彩を感じる。
ドイツ的=言語的、単色的 イタリア=言語的、色彩的 フランス=絵画的、色彩的と滅茶苦茶強引に線引きするなら、ロシア的とは単色的で絵画的とみるのは、どうだろうか。ムソルグスキーの描いた展覧会の絵は鉛筆画だったが、それを下絵にラヴェルが色彩を付けたと考えると、やや強引だがこの話が納得できるように思う。
まあそんなこんなで、今日も音楽を読む、聴く、楽しむ幅が広がって良かったなと思う訳で。