今日は私が愛してやまない声優の1人・

三木眞一郎さんの誕生日です!

 

おめでとうございます!

 

 

 

三木眞一郎さんは1968年3月18日生まれ、魚座のAB型。

 

東京都世田谷区出身で、所属事務所は81プロデュースとなっております。

 

 

誕生後、50年近く東京都世田谷区に住んでいた三木さんは、昔から芝居が好きで小学校時代の芸術鑑賞会で劇団四季の『人間になりたがった猫』を観に行ったその日の夜に熱を出して寝込んでしまったといいます。

 

学校を巡回していた劇団が来ていた時は控え室までサインをもらいに行った事もあり、その頃から芝居への熱量は高かったといい、また姉が第一次声優ブームの中にいた人物のため小学生の頃から職業としての声優は知っていたそうです。

 

漫画『TWIN』(小学館、ヤングサンデー連載)がビデオアニメになる時にしていた読者声優募集に応募するとスタジオに呼ばれて現場でオーディションをして一番セリフの多い役をもらっていました。

 

その時は「声優できたじゃん」と自分の中で思っていましたがまだ中途半端な時期で、本気で声優になろうとは思っていなかったそうです。

子供の頃から声優という職に就く自分の姿が頭にあり当然のように「できる」と思っていましたが、周囲からは「儲からない」という理由で反対されていました。

 

当時は映画『刑事物語2 りんごの詩』を見て武田鉄矢さんがカッコイイと思い事務所を調べ、「何でもいいんで武田鉄矢さんと仕事がしたいんで入れて」とお願いしていましたが「そんなムチャな」と断られていたそうです。

中学時代の卒業文集に将来は「イラストレーターかアニメーターか、声優になる」と書いていたといいます。

高校は三木さん曰く共学という名前の男子校の工業高校で全校で女性は2人だったそうです。

 

高校時代は美術部で部室に閉じこもっており、文化部で唯一部室があり学校に行って朝部室に行くと1日出てこず授業に出なかったそうです。

 

その後出席日数が足りなくなり卒業できなくなるほどあまり良い生徒ではなく、美術部で絵を描かないとまずいため文化祭に向けて描いていました。

 

但し部員も漫画描いていた人物が多くマンガクラブのようになってしまい、自身も「バイクのレーサーを目指しつつ、アニメーターもいいかナ……」と学生時代はレーサーとアニメーター志望だったそうです。

友人が舞台の芝居の手伝いで三木さんも出ており、その友人に「こういう事務所もあるよ」と教えてもらったのが後に所属する事になる81プロデュースでした。

 

その81プロデュースに「入れてくれ」と直接電話をしましたが断られ、履歴書だけ送ったところ研究生「81アクターズスタジオ第1期」のオーディション案内が送られてきました。

 

他の応募者はどこかの養成所に所属しているグループばかりで、無所属は三木さんだけでしたがオーディションに合格しました。

 

研究生の中でトップを目指し、分からない事があればすぐ講師に聞きに行きましたが、一人だけ熱心だった事が逆に仇となり講師からは媚を売っている風に映って煙たがられてしまったとの事で真意を理解してもらうのに半年かかったといいます。

 

同期からは妬まれておりいじめを受けていましたが本人は気にせず、その後研究生でありながら声優の仕事が入るようになり、3年制だった課程を2年で終えました。

 

1989年、『ダッシュ!四駆郎』の神崎操役で声優デビューし、1994年放送開始の『キャプテン翼J』の若林源三役で初レギュラーを獲得しました。

 

更に同年発売のOVA『青空少女隊』の石動拓也役で初主演を果たし、翌年1995年放送開始のTVアニメ『バーチャファイター』の結城晶役でTVアニメ初主演を飾りました。

 

 

そして1997年放送開始『ポケットモンスター』シリーズのコジロウ役や1998年放送開始『頭文字D』シリーズの藤原拓海役など数多くの人気作に出演するようになり、同年には『ヴァイスクロイツ』の内で結成された子安武人さん、関智一さん、結城比呂さんとのユニット『Weiß(ヴァイス)』を結成しました。

2002年に元ファンの一般女性と結婚し、2006年6月に自身の公式サイトで前年2005年10月に長男であり同じく声優で81プロデュース所属の三木一眞さんが産まれ父親になった事を公表しました。

2010年発表の第4回声優アワードで助演男優賞、2014年発表の第8回声優アワードで富山敬賞をそれぞれ受賞しました。

2019年に同じく声優の石川界人さん、浪川大輔さん、畠中祐さん、音響監督の三間雅文さんらと声優界初の本格的レーシングチーム『VART(Voice Actors Racing Team)』を結成しました。