今日は私が愛してやまない声優の1人・

朴璐美さんの誕生日です!

おめでとうございます!
 

 

朴璐美さんは1972年1月22日生まれ、水瓶座のAB型。

東京都江戸川区出身で、所属事務所はLAL及び代表を務めています。

元々は在日韓国人として生まれ後に日本に帰化した韓国系日本人です。


子供の頃は体が弱く、肺炎で死にかけたり食事もあまり摂らないにもかかわらず活発に動いて突然倒れる事もあったそうで、この頃のあだ名は「半切りごぼう」と名付けられていたという朴さん。

体を鍛える事と箱入り娘に育てるため少林寺拳法や水泳、ピアノや書道、公文やそろばん、油絵など習い事をいくつもこなし、儒教のしきたりで毎週日曜日に祖父母の家を訪ねていました。

 

学校では日本語、家では日本語と韓国語、祖父母宅では韓国語で過ごす一日で世界が変わる生活は現実感がなく、特に祖父母の家に行く事は鬱陶しく感じていたそうです。

家ではだらしないとして流行のファッションをしていると怒られ父とは20歳になるまで敬語で会話しており、中学は地元の公立校では不良になるとの心配から母の意向で私立校・和洋国府台女子高等学校に通い、高校は自分の居場所を求めて韓国の学校へ進学する事を希望するも許されなかったそうです。

元々演劇に興味を持っていたわけではなかったのですが、興味を持つようになったのは高校で演劇部に憧れの先輩がいた事と先輩に誘われた事でした。

両親からは「高校生になったら部活動してもいい」と許しが出たため先輩の言葉に乗って演劇部に入部すると、みんなで作品を作り上げる事が好きになり芝居にのめり込むようになります。

当時は学校の演劇部としての活動はほどほどでしたが地区大会のようなものには出場しており、顧問の教師からもあまり干渉はされず自由奔放にしてもらえたそうです(1年目は役をもらえず照明を担当していました)。

当時は演出にも興味があり、きっかけは芝居の演出も生徒が色々な役割分担をそれぞれに受け持つ形で運営していた事でした。

脚本は色々で当時は人気のあった野田秀樹の作品などを上演しており、野田作品の舞台は観たことは一度もありませんでしたが勝手に自分なりの解釈で舞台を演出していました(短大生になり初めて夢の遊眠社で野田の演出の舞台を観て「オリジナルはこうなっていたんだ」と感激していました)。

高校3年の時に出場した全国高等学校演劇大会の地区大会でミヒャエル・エンデの『モモ』の登場人物を全員女性に改稿して演じていましたが、本番で演じている最中に停電になり上演は中止に。

当時は灰色の女役で丁度舞台に立っていた時に真っ暗になったため「これだけ稽古してきたのに、もう演じられないのか」とものすごくショックを受けており、皆号泣したりパニックを起こしたりとおかしなテンションになっていたそうです。

電源が復旧しもう一度最初から演じられる事になった時には冷静になってしまい灰色の女にしか見えなくなっており、今まで感じた事のない凄く変な感覚を味わったところ演劇の虜になっていたそうです(本人曰く「やはり、どこかで苦しかったのかな」と語っています)。

日常を生きていく上で現実感がなく日本の社会に入り、溶け込もうとしても中々そうもいかず何かしらで必ず自分の中に違和感を感じており、演劇の中でやっと一つになれる実感があったんだそうです。

その頃「自分はもしかしたら精神を病んでしまっているのではないか」と思い母に病院に連れていってもらった事もありましたが、その病院の医師が重度の患者に会わせてくれて「君は病気じゃないよ」と言ってくれたそうです。

大学は今度こそ韓国の学校に行こうとするも当時の韓国は学生運動が盛んで危険だった事もあり、母から日本での受験を勧められます。

 

その時は進路を決める時期で中学高校と女子校だったため「もう女子だけの環境はイヤ!」とエスカレーター式の女子大に進学したくないと思っていましたが、両親は大学進学希望で母はそのままエスカレーター式で大学に進学してくれると思い込んでいたようです。

芝居の他にもビーズなどで小さくて細かいものを延々と作っている事が好きだったため「アクセサリーなどを作る人になりたい」と思い専門学校の資料を取り寄せたりしていましたが、両親から「大学進学以外は絶対に認めない、大学に進学しないなんて朴家の恥だ」と言われました(大学進学以外の選択肢は何も考えていませんでした)。

演劇に比重を置いていたせいで受験準備もしていなかった事から友人から聞いた試験科目が国語と実技だけだった桐朋学園芸術短期大学演劇科を受験し、最終的には偶々演劇の大学に行きますがアクセサリー関係の大学を知っており、もし両親が許してくれていたら「今頃は立派なアクセサリーデザイナーになっていた」と語っています。

大学入学後も役者になろうとは思わず卒業後に日本で付いてまわった違和感を「はっきりさせたい」と思い遂に韓国の延世大学校 韓国語学堂に留学しますが、日本で得た内なるものと韓国での擦れ違いから失意のうちに帰国し、1993年に大学時代の劇団仲間の勧めで円演劇研究所に入所(その時に演出家の福沢富夫に出会い、「この人にならすべてを見せられる」と思った事がきっかけでした)、そして1995年に演劇集団 円の会員に昇格します。

 

当時、演劇集団 円の会員になったのも前述の自然な流れからであり、演劇集団 円に入団後も自分が役者として生きていく事に疑問符だらけでした。

 

演技でお金を受け取る事がピンとこなく、朴さんにとってお金をくれるのはアルバイトであり、演じる時にはお金の事は一切考えていませんでした。

 

あの頃は少しTVドラマや舞台、PVに出演していたくらいで結構な金額が手に入る事もある世界で、純粋な気持ちで演技に打ち込んでいましたがそうではないのが勝っていくような大人の事情が見えてしまう事もありました。

 

朴にとって芝居はすごく神聖なものでしたがどんどん汚されていってしまい「そんな場所にはいたくない」思いが徐々に強くなりました。

演劇集団 円の研究所で一つと下の期にいたところ演出部に同い年の富野由悠季監督の長女の富野アカリさんが入った時は「『ガンダム』の娘がいる」と話題になっていました。

 

演出部は一期上の公演にスタッフとして付いてくれるため、交流もあり皆で富野アカリの別荘へ遊びに行った時、富野監督がおり「ああ、この人がガンダムの生みの親だ」と思ったそうです。

 

その家には玄関にガンダムの立像が飾っており、「ああ、ここにもガンダムが!」と思ったそうです。

演劇集団 円の研究所時代は切磋琢磨しながらのモノ作りの面白さを強烈に感じていましたが、劇団員になり段々経験を積んでいくに従い自分が一つのコマのようになっていくような感覚になってきたそうです。

 

自分が失われていくような感じで「これは自分がやりたかったことかな」と思うようになり、一つの型にはめられていくのは自分の性には合わず「役者業業であるならば潔く辞めて他の道を探そう」と思ったといいます。

円の演劇研究所時代はアルバイトをさせてくれませんでしたが、正式に演劇集団 円に入ってから初めてアルバイトをしていました。

 

その時は携帯電話を売るのが天才的に上手く、あらゆる大手電気量販店で携帯電話を売りまくり、あとはスーパーの冷凍商品販売で品切れにした事もありました(たくさんソーセージを売っていたため、仕事場で重宝されていました)。

 

自分のやり方で販売できる事にやりがいを感じて「いっそ販売で生きていこうかな」と思い始めていましたが、それほど仕事がなかった時は円の人物からたまに仕事のオファーの話が来ると「えーバイトできないじゃん」と本気で思ったそうです。

 

この仕事をしていると急に仕事や稽古が入ることも多いため、周囲はアルバイトスケジュールなどの変更でアルバイトをクビになってしまった人物もいましたが、朴さんは売り上げが良かったためクビになる事はありませんでした。

 

その時「私自身、このまま社員になってもいいかな」と思ったくらいで、それまであれほど反対していた両親も漸く認めてくれたそうです。

入団から2年後役者を辞めようとしていたところTVアニメ『ブレンパワード』のオーディションの話が来て、マネージャーから「受かるわけないから最後だと思って行って来たら」と言われ軽い気持ちで参加した結果、監督の富野由悠季さんの目に留まり合格しました。

 

1998年に『ブレンパワード』のカナン・ギモス役で声優デビューを果たしました。

 

1998年当時、舞台女優活動を行うもなかなか売れず、演劇をやめて別の道を模索しようとも考えていた頃、難関高倍率のオーディションで有名なガンダムシリーズの大物監督・富野由悠季監督が新作ガンダムアニメの制作のため様々なジャンルからの才能をアニメの現場に起用し、若い才能を発掘するべく、沢山の演劇イベント会場を回っていたそうです。

 

それ以前に『機動戦士ガンダム』など富野監督の作品を意識された事はあまり拝見しておらず、『ガンダム』は知っており弟が熱中していましたが、当時の知っているアニメーションは『銀河鉄道999』や『宇宙戦艦ヤマト』まででした。

 

オーディションは富野監督の作品と知らずに受け、声の仕事も初めてのオファーで職業として声優がある事も知りませんでした。

 

アニメやナレーションなどは生身の人間が喋っている感覚が希薄で気にしておらず、声の仕事を始めてから気にするようになりました。

オーディションに先立ち年に1回、演劇集団 円の先輩であった橋爪功さんの別荘で行っている菜の花舞台を観に来ていた富野監督が朴さんをじっと見つめており、観た後からオーディションを案内され受かるわけないわけがなかったそうです。

『ブレンパワード』の時は今まで舞台を中心に活動していたため声だけの仕事は全く初めてでしたが、演技をする事には全く違和感は感じていなかった時は面白くて楽しい現場で芝居を仕事にする事に幻滅する事も多かったそうです。

 

収録現場ではそれぞれの役者が自分のポジションをきっちり理解し、役を担って次の人物へとパトンタッチしていく姿を見て「舞台以上に舞台だな」と感じていたそうです。

 

収録の日が来るのが楽しみで「こんな素晴らしい世界があったのか」と心が震えていたといい、一瞬ごとに役者の皆がキャラクターに命を吹き込んでいく様を目のあたりにしていた時は「これぞ演劇だ」と感銘を受けたそうです。

朴さんにとって富野監督は「第二のお父さんのよう」に感じており、カッコつけることができない性格のため自分の思いをそのまま富野監督にぶつけ、その時は富野監督が優しく「近づくな」と言いました。

朴さんにとって大きな転機になり、初めての声優経験でしたが、周囲の先輩に助けられながらカナン・ギモス役を演じ切り「大きな充実感も得た」と語ります。

 

カナン役に対する思い入れはかなり大きく、「カナンの人柄は、自分が当時持っていた焦燥感によく似ていた」といい『ブレンパワード』が最終回を迎えた時は「永遠に続いてほしい」と思っていましたが、当時は舞台系の事務所に所属していたため「声の仕事は最後だろうな」と思っていたそうです。

 

『ブレンパワード』の打ち上げではベロベロになるほどに泣き、富野監督から「また会うかもしれないし」と言われても大号泣だったといいます。

 

しかしその後、すぐに『∀ガンダム』のディアナ・ソレルとディアナ・ハイムの役でオーディション参加を依頼するFAXが自宅に届き、富野監督に再び会います。

 

突然声優としての仕事が始まってそれぞれの番組が終わる度に「もうこれで声の仕事はないだろうな」と思っていたところ次々と仕事をくれて莫大に増えました。

 

しかし一度全部声の仕事を綺麗に清算し「舞台に戻ろう」と思った時期もあり、あまりの仕事量に自分の許容量を超えてアレルギーのようになり声は枯れた事はありませんでしたが、生まれて初めて枯れてしまい自信を喪失してしまったそうです。

 

それ以降の作品も自分の中でできるかできないかでぐるぐる迷っていた時「やっぱり私はいつも最初だけで後はダメなのかな……、いやそうじゃない!!ここで一発、朴璐美、変えようじゃないか」「最初良ければ終わりも良しにしようぜ」と思い、少し踏ん張ろうと決めました。

 

しかし、オーディション当日に運営スタッフから「この役もやってみて」といきなり主人公、ロラン・セアック役の台本を渡され、そこに書かれている台詞を読むよう指示され、合格した事からその後の人生が大きく一変します。

 


2003年発表の「第26回アニメグランプリ」にて声優部門賞を受賞し、翌年の2004年には「東京国際アニメフェア2004」にて声優賞を受賞しました。

2006年1月25日発売のシングル『ボクたちにあるもの』でavex mode(現:avex trax)より歌手デビューし、同年度の「第1回声優アワード」にて『NANA』の大崎ナナ役で記念すべき初の主演女優賞を受賞しました。

2009年に特撮『侍戦隊シンケンジャー』の薄雪役で女優として初出演、更に2013年には第25回東京国際映画祭日本映画・ある視点部門ノミネートの『あかぼし』で実写映画初主演、そして2019年、東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』のマダム・テナルディエ役でミュージカル初出演を飾りました。

2017年11月15日付で22年間在籍した演劇集団 円を退所し芸能・声優事務所LALを設立、2020年1月22日には同じく声優で俳優の山路和弘さんと結婚しました。