今日は私が愛してやまない声優の1人・

田中理恵さんの誕生日です!

 

おめでとうございます!

 

 

 

田中理恵さんは1979年1月3日生まれ、山羊座のB型。

 

北海道札幌市南区出身で、所属事務所はオフィスアネモネとなっております。

 

 

子供の時は生傷の耐えないおてんばで勉強より外で遊ぶのが好きな子供だったという田中さん。

 

小学校時代、学校から帰ってくると玄関にランドセルをそのままポイと置いてすぐに外に遊びに行くような男の子のような子供だったそうで、親からは「野生児」と言われていたといいます。

 

冬は室内で過ごす事はなく冬でも学校の屋外授業が結構あり、特に楽しかったのは毎週土曜のスキーの授業で「1日勉強しないでいいからラッキー!」と感じていました。

 

冬は他にも野鳥観察でひな鳥が元気に成長しているかを観察して日記に書いたりしていたそうです。

 

外で自然に触れる課外授業がたくさんあり、春になれば学校の裏山に教師と山菜を観に行って写生をしたり田植えの授業もあったといいます。

幼い頃におばさんに歌を教えてもらっており『氷雨』も歌っていたそうで、小さい頃なりたかった職業はスターやスチュワーデスでした。

小学生の時は図書委員会に所属しており、人に読み聞かせをするのが好きで担任の先生が教室にやってくる前の朝の時間に低学年の児童を相手に紙芝居を行っていたそうです。

 

また図書委員の活動の1つで視聴覚室を使用して紙芝居大会が行われた際、紙芝居を見た児童が喜び先生に褒められて非常に嬉しかった事が声優を志す遠因となりました。

歌う事や絵を描く事も好きで、デッサン教室にも通っていた時は大人の中に1人だけ小学生が混じって木炭を握ってひたすら描き続けたそうです。

 

近所に芸術家が何人か住んでいたためそういった付き合いの中で絵を描く事も自然な流れでしたが、当時の田中さんにはデッサンは難しく林檎ひとつ上手く描けませんでした。

 

特に空間を描くのは難しく、紙が真っ黒になってしまった事もありました。

 

教室では毎回皆の作品を並べて先生が1人ずつ評価をしてくれましたが最年少だった田中さんは常に最後で「子どもと言えども容赦しない」といつもかなり手厳しい評価だったそうです。

 

しかし嫌になる事はなくきちんと評価してくれる事が楽しかったといいます。

 

習い事は他にも英会話教室、小学校時代から中学時代まで水泳や書道、バレエなどをしており、全て自分が好きで「やりたい」と言って始めたものばかりでした(英会話は少し母の意向が強かったといいます)。

中学時代は美術部に所属し、油絵がとにかく好きで油絵の絵の具の香りも好きだったそうです。

 

ある放課後、絵を描いていたところ窓からサッカー部の男子が蹴ったボールが田中さんに飛び込み、驚いて反射的に立ち上がった拍子に絵が自分の側に倒れて来て絵の具がべったりしていたそうです。

 

ボールを蹴った男子はかなり謝られていましたが制服についた絵の具が落ちず親には怒られるなど大変な思いをしたため、この事は凄い思い出として挙げています。

中学に進学してからはあまり外で遊ばなくなり、その頃からゲームが好きになったといいます。

 

丁度故・いのまたむつみさんの絵が好きで本屋でいのまたさんがジャケットイラストを担当したドラマCD『CDシアター ドラゴンクエスト』を購入して聴いた事と、学生時代に元々芝居も好きで演劇部にも所属していた事が声優を志す直接的なきっかけとなりました。

 

高校2年生の時に放送されていた人気アニメを色々見た事で職業としての声優に憧れを持ち、職業としての声優について色々調べ始めていたといいます。

高校時代は4つくらい部活に所属していたそうで、高校時代に漫画研究部に所属してまんが甲子園に出場した事がありましたが、その場で審査員だった同郷の島本和彦さんに「声優になりたい」と直訴したといいます。

 

部活は掛け持ちがOKだったため、軽音楽部にも所属していました。

 

その頃は「表現する事」に関してやりたい事が多数あり、学園祭ではバンドを組んでリンドバーグのコピーなどを演奏し、田中さんの担当だったヴォーカルだけでなくドラム、ギター、ベースまで全員女の子だけというガールズバンドで楽しかったそうです(なお、母はピアノを習わせたかったようでしたが楽器演奏には興味が持てなかったといいます)。

 

高校時代は何回か行った代々木アニメーション学院札幌校のアフレコ体験入学で演技を初めて経験し、「演技は30分や1時間で学べるようなものではない」という事を感じていたそうです。

 

その時に台詞一つ言うだけでも画に当てるのが精一杯であったといい、担任の教師に進路を聞かれると「声優になりたいんです」と答えていましたが、当時は職業としての声優が世間的に認知されていなかった事もあり教師には「スーパーマーケットの西友に勤めるのでしょうか?」と言われてしまったといいます。

高校卒業直前に大学進学を断念して声優になるために上京する事を決心し、その時にひとり娘という事から両親を説得するのに大変だったといいます。

 

両親は「その職業に就いて、ちゃんとお金を稼いでいけるか?」と声優の道に進む事に猛反対しており、それまで家系で芸能関係に進んだ人物はおらず高校卒業後は地元の大学に進学するものと親は信じていた事から勘当寸前の状態だったといいます。

 

そこで「専門学校の授業料も自分で稼がないといけないなあ」と思い、玩具店で商品ラッピングのアルバイトをします。

 

最後に両親は「そこまで言うのなら応援しましょう」と言ってくれ「声優を目指すなら東京に行かないと仕事の機会がない」と思った事から上京したといいます(しかし「1年間学んで、何の仕事もなかったら帰ってきなさい」「1年間だけ猶予をあげるから、頑張ってみなさい」とも言われたといいます)。

1997年、高校卒業後に上京し代々木アニメーション学院声優科に入学します。

 

読み聞かせや子供の世話が非常に好きだったため保育士になる事も大きな夢で、進学して保育士になるかそれとも声優になるかで迷っていましたが「ひとつの世界に止まらず、より大きな世界で子供たちに声を届けたい」との思いから声優を選択しました。

 

専門学校時代は寮の近くの焼き鳥屋や駅地下のブティックの2ヶ所でアルバイトし、いつオーディションが入るか分からずオーディションを優先したかったため週1回ずつぐらいのアルバイトでしたが、貯めたお金でオーディションに着ていく洋服を買ったりしていたそうです。

 

その後はゲームも買っており、2011年時点では「好きなゲームに自分の声をアテル仕事ができて本当に幸せだ」と語っています。

 

自分でゲームをしていると仕事でも「ああ、ここでこの台詞が入るんだな」と感覚的に分かり「全くプレイしない人よりは、ずっとやりやすいんじゃないか」と思っているそうです。

 

既に出演しているゲームの続編の仕事をもらったりすると前のゲームを実際にしてシステムも理解している事からもうなんとなくイメージできて「出させていただいて栄光です!」と思いながら仕事しています。

 

在学中の1997年公開の劇場版アニメ『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 維新志士への鎮魂歌』の無名の少女役で声優活動を始め、1998年3月26日にメディアワークス&サイトロンのヴォーカルオーディションでグランプリを獲得し、『悠久幻想曲 2nd Album』PS版オープニングテーマ「永遠の親友」で声優ではなく歌手として芸能界デビューを果たしました(他にも同時期に『宮村優子の直球で行こう!』などのラジオ番組のアシスタントもしていました)。

 

その時は「主題歌?私が本当に歌っていいんですか?」という感じだったそうですが両親はいつも通りの反応であったといい、想念に代々木アニメーション学院卒業後はドラマチック・デパートメントに所属しました。

 

在学中からの実績を残せたためこのまま声優の仕事を続けていく事を親に認めてもらえた事から、1999年放送開始のTVアニメ『デュアル!ぱられルンルン物語』のヒロイン・真田三月役でプロの声優としてデビューを果たしました(初めの頃のアフレコで野沢雅子さんと緒方賢一さんに助けてもらい、丁寧に演技の指導をしてくれてとても感謝しているといいます)。

 

2001年2月7日発売のファーストアルバム『garnet』で本格的に歌手デビューを果たし、2002年5月22日発売の1stシングル「Raison d'être」(自身がちぃ役で出演したTVアニメ『ちょびっツ』エンディングテーマ)でビクターエンタテインメントに移籍しました。


そして2002年放送開始のTVアニメ『機動戦士ガンダムSEED』のラクス・クライン役で大きな注目を浴び、知名度を飛躍的に高めました。
 

 

 

24歳の誕生日当日となる2003年1月3日に2枚目のオリジナルアルバム『24 wishes』を発売し、同年7月には公式ファンクラブ「Cafe de Rie」を発足しました。

 

2004年放送開始のTVアニメ『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』ではラクス・クライン役とミーア・キャンベル役の2役を同時に担当し、同年放送開始のTVアニメ『ローゼンメイデン』の水銀燈役で最も人気のあるキャラクターの一つとなりました。

 

2005年4月開催の舞台『コトブキ!』にて初主演を務め、更に2006年放送開始のTVアニメ『働きマン』の松方弘子役でTVアニメ初主演を果たしました。

 

2008年4月1日よりマネジメント上の都合で長年所属していたドラマチック・デパートメントからリトリートへ移籍し、2012年6月をもって公式ファンクラブ「Cafe de Rie」を解散しました。

 

更に2013年6月22日、シネマサンシャイン池袋で開催された『TVアニメ『超次元ゲイム ネプテューヌ』ギョウ界最速!先行上映イベント』で鈍器を持った男が乱入し、逃げる際に階段を踏み外して転倒して膝などに打撲を負いました。

 

幸いケガは大事には至らなかったものの精神的に大きな痛手を負ってしまい事からX(旧:Twitter)を休止する事を発表しましたが、2015年8月26日、約2年2か月にぶりにXを再開しました。

 

2019年3月1日よりリトリートからオフィスアネモネに移籍し、同年4月26日より「田中理恵の姐さんTV」でYoutuber活動を行う事が発表されました。

 

2022年1月7日にはスウェーデン出身ミュージシャンのPatrik LeonheartさんとSimon Andanteとの音楽ユニット「Uz:ME」を結成し、同年2月25日にはデビューシングルとなる「SEARCHLIGHT」をデジタルリリースしました。