今日は私が愛してやまない声優の1人・

緒方恵美さんの誕生日です!

 

おめでとうございます!

 

 

緒方恵美さんは1965年6月6日生まれ、双子座のB型。

 

東京都千代田区出身で、所属事務所はBreathe Arts及び代表を務めています。

 

父親は東宝に在籍し宝塚の指揮者やトロンボーン演奏、越路吹雪がいた頃のミュージカル音楽監督などを務め、母親は声楽といった両親・祖母・2人の弟の6人の音楽一家で育った緒方さんは、音楽が得意な両親の影響を受けて3歳の頃からピアノを始め、バレエや日舞も習っていたそうです。

 

家にはいつも音楽が流れており、フルートやヴァイオリン、チェロといった楽器も数十種類あったそうで、一方秋葉原(千代田区外神田中央通り沿い)にあった生家は細い5階建てのビルとその裏の2階建ての一軒家を連絡通路で繋いで暮らしていたそうです。

 

緒方家は100年続く家業として日本酒の酒度を測る計器を扱う会社を経営しており、ビル内は会社用スペースと居住スペースが混在していましたが、その後父が心臓を患い楽器が吹けなくなったため家業を継ぐと同時に妻と共にビルの1階で喫茶店を経営しました。

小学6年生の頃に(千代田区立芳林小学校(現・昌平小学校)在籍)学芸会の演劇で初めて舞台に立つと周りから演技を褒められた事で演じる事の楽しさを知り、その後映画館で『宇宙戦艦ヤマト』と『銀河鉄道999』を鑑賞して購入したパンフレットを熟読した事で声優という職業の存在を知ります。

中学では(桐朋女子中学校在籍)ハンドボール部に入部し、試合のない土日は両親の喫茶店でアルバイトを始めます。

 

中学時代に腰の怪我が原因で高校時代からは「何か別のことをやろう」と学生時代に洋楽を愛するようになり、耳コピから作詞作曲、弾き語りのアルバイトなどアマチュア音楽活動を続けました。

 

桐朋女子高等学校進学後に芸能事務所の養成所の入所試験に応募したところ合格し、2ヶ月ほどでドラマや舞台の仕事の話を貰えるようになりますが、通っていた高校の規則で在学中の芸能活動は禁止だった事から芸能活動を断念し程なく退所します。

 

この挫折経験が元で本格的に役者の道を志すようになり、高校で友人達と演劇サークルを立ち上げ、芝居の面白さに嵌っていきました。


「高校卒業したらプロの役者になろう」と考えたものの父の反対により大学に通いながら演劇活動をする事を決めます。

 

得意科目だけで受験できる大学を探した結果当てはまった東海大学海洋学部受験し合格しますが、入学間際で同学部のキャンパスが静岡県沼津市にあると知り、急遽現地の学生寮を契約し入学後から暮らし始めます。

しかし大学生活を送る中で「やっぱり東京で芝居がしたい。ここにいてはダメだ」との思いに駆られ、僅か1年で親に無断で大学を中退します。

 

実家に戻るも父親に叱咤され家を追い出されアルバイトで貯めていた資金で世田谷区南烏山(千歳烏山駅辺り)のアパートに下宿し、困窮生活を送ります。

その後窮状を見かねた祖母が間に入った事で両親から「オペラを学ぶのならいい」との許可を取得し、東京声専音楽学校(後の昭和音楽芸術学院)に通う事が決まりました。

 

しかしここでも緒方さんは親に内密でオペラではなく新設されたミュージカル科に願書を提出し、入学後は南烏山のアパートを引っ越した後はアルバイトを掛け持ちしながらミュージカル女優を目指しました。

 

同校卒業後、劇団「ネヴァーランド・ミュージカル・コミュニティ」に所属しミュージカル女優として劇団公演の傍ら商業ミュージカル等に出演しました。

 

中学時代に痛めていた腰の再発で「ついに踊るのはもう無理だ」という事態になり、劇団解散後は当時のプロデューサーに「君は少年役で舞台に立ったときに、とても華がある。声優をしてみるのはどうか」と声をかけられた事を機に声の世界へ入ります。


24歳の時、声優養成所の青二塾に入塾すると才能を評価され、その後青二プロダクションへの所属が決まりました。

 

1992年に『幽☆遊☆白書』の蔵馬役で声優デビューし、デビュー直後はレギュラー番組が1~2本だったため空き日を演技や発声などのトレーニングに活用できたといいます。

 

蔵馬役に選んでくれたスタッフから「高校生の男子役を女性声優が演じるのは、初めてじゃないか」と言われ、放映前は女性声優が同役を演じる事を知った原作ファンから「どうして蔵馬役が女性なんだ?」との否定的な投書もありましたが、放送開始後の同作キャストによる初イベントの頃に緒方さんが登壇した途端とんでもない量の黄色い声が上がるようになっていたそうです。

 

しかし約半年後、声優専門雑誌が次々と創刊され下記の第3次声優ブームが起きた事で、緒方さんを取り巻く状況が一変した事を境に月10本以上のレギュラーの仕事を抱えるようになったといいます。


1994年に第17回アニメグランプリ「声優部門賞」を受賞し、この回は男性キャラ部門・蔵馬(『幽☆遊☆白書』)、女性キャラ部門・天王はるか(美少女戦士セーラームーン)をはじめ全部門が緒方さんの関係作品関連で埋まりました。

 

更に1995年、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役でアニメ初主演を射止め、14歳の少年が抱える内面の揺らぎを繊細に演じ、緒方さんにとって名実ともに代表作となりました。






2021年公開の完結作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でその後の心境として「連続アニメの放送から25年以上に渡り碇シンジという少年を演じたが、私の声優人生においてもやはり『エヴァ』の存在は大きかった。長年シンジ役を演じる上で、自分の中には“14歳の魂を失ってはいけない”という呪縛のような強い責務があった。でもシリーズが完結したことで“14歳の魂”は私の中でどうやら血肉化してしまい、もはや失われるようなものではなくなったようです。振り返って見れば、『エヴァ』の碇シンジを演じるために声優になったといっても過言ではない。碇シンジを演じたからこそ、ここまで声優を続けて来られたのだと思います」と語っています。

 

『新世紀エヴァンゲリオン』と同時期に起きた第3次声優ブームを追い風にラジオ番組や声優雑誌などへのメディア露出が相次ぐほど一躍人気声優の仲間入りとなりました。

 

青二塾に通い始めた頃は心臓を患う父の容態が悪化し、当時の恋人にそのことを話したところ「お父さんのためにも近い内に結婚しよう」とプロポーズを受けて急遽結婚が決まり、緒方さんの花嫁姿を見た父は「唯一の親孝行をしてくれた」と喜び、後日他界しました。

その後、主婦業の傍ら青二塾へ通うものの卒業後はオーディションや仕事上の予定が増えた事で家庭に割く時間が削られるようになり、やがて『幽☆遊☆白書』のオーディションで初めて役を得るも今後の声優活動がより多忙になると分かり、夫と話し合った結果半年後に離婚しました。

離婚後は実家にほど近い文京区根津のアパートで一人暮らしを始め、1998年に青二プロダクションを退所してフリーになり、豊島区の椎名町駅付近に2DKのマンションと個人事務所を借りて再出発するも心労が重なり2000年に休業します。

しかし程なくして実家が多額の借金を抱えている事を知り、実家を支援するため自身のマンションと個人事務所を解約し、休業を切り上げて声優活動を再開せざるを得なくなりますが、実家の借金やビル等の問題は(2022年の)数年前に片付いたそうです。

2004年4月1日に13歳年下で一級建築士の男性と再婚し、その後二人で購入したマンションで現在も暮らしています。

 

2009年には演劇集団キャラメルボックスの女優・坂口理恵さんと女優兼劇作家の真柴あずきとの3人で演劇ユニットARMs(あーむす)を結成します。

 

日音アーティスト、スペースクラフトプロデュース、ホーリーピーク、フリー、JTBエンタテインメント、フリー(ネヴァーランド・アーツと業務提携)を経て2019年2月1日、新たに声優事務所Breathe Artsを設立し代表に就任と同時に完全無料の私塾「Team BareboAt」も開設しました。

 

声優アワードでは2013年の第7回で「高橋和枝賞」、2022年の第16回で「主演女優賞」をそれぞれ受賞しています。

 

また、デビュー当初は「音楽でプロになろうとは思わなかった」そうですが、声優として売れた事を機に1995年、アルバム『Marine Legend』でポリグラムより本格的にプロの歌手としての活動も開始しました。

当初は声優として声優ファンを意識しアニメ作品のキャラクターソングの延長上として歌っており、作曲よりも歌に専念すべきと考えていたそうですが、2000年のランティスに移籍後、社長の井上俊次の勧めで作詞・作曲も自ら手がけるシンガーソングライターとしての本格的な音楽活動に移行します。

暫くはまだポップス寄りの曲を作っていましたが、井上のバックアップが転機となり次第にロック志向・バンド志向の強い活動を行うようになります。

2000年代にはバンに乗ってバンドで回るような活動も行っていましたが、後に「もっと自由にやっていいんだ」と考えるようになり、2012年1月25日リリースの『Rebuild』は「デビューアルバムのような気持ちだった」と述べています。

現在では一部の作曲とほぼ全ての作詞(em:óu(エムオゥ)名義)を手掛け、国内外で精力的なライブを行っています。

 

 

声優・女優・歌手と多方面で活躍し、現在でも精力的に第一線で活動している大人気ベテラン声優さんです!