今日は私が愛してやまない声優の1人・

中島愛さんの誕生日です!

 

おめでとうございます!

 

中島愛さんは1989年6月5日生まれ、双子座のA型。

 

茨城県水戸市出身で、所属事務所は音楽活動及びマネジメントではストロボミュージック、声優活動ではステイラックと業務委託しています。

 

日本人のバンドのアマチュアドラマーの父とフィリピン人の母の間に生まれ、音楽に溢れた家庭環境で育った中島さん。
 

1歳少しの頃に撮影していたテーブルの上に乗り童謡の『アイアイ』をエンドレスリピートで歌い続けていた頃から「そういう人だったんだな」といいます(2019年時点で親に会う度に「延々と歌を聴かされてた」と言われた時、「ちょっとしゃべれるようにな」と立ち始めた頃から「そうだった」と聞いていたといいます)。

家にはドラムセットがあり、物心がついた頃から自然に「音」や「声」に触れており、家にいた時は父がドラムを叩いているかギターを弾いてるか歌っているかのような感じであったといい、その時に考えている間もなく「私も表現者になりたい!」と少し思い込みに近い気持ちを持ち始めて音楽に興味を持っていたそうです。

 

歌も父に教えてくれて、家の中ではAORやR&Bなどの音楽が流れており、その頃に聞いていた楽曲は2011年時点でも好きなものばかりだといいます。

アニメや教育番組、スーパー戦隊も見ており曲も好きであったそうですが、その中で最初に一番好きになったのはTVアニメ『美少女戦士セーラームーン』の曲でキャラクターソングも好きで聞いていたそうです。

 

「すてき!」と心にひっかかるのは「声」でアーティスト、声優が歌う歌、興味を抱くもの全てにおいて「声」が共通していたようで、アニメや本、漫画やCDなどそういうもののため、親から制限されたことは特になかったそうです。

 

TVCM、デパートの中のBGMで気になる音楽を聞いていたところ親に「これが好きなの!」とお願いして誰の曲なのか調べてくれたりしていたそうで、両親はその頃から中島さんには「芸能の世界に入ってほしい」と希望してなかったと語り、「この子はアニメを見たり歌ったりするのが好きだなぁ」ぐらいだったといいます。

 

但し自分の中では芸能の世界への憧れの気持ちはどんどん強くなっていったといいます。

一方で子供の頃は絵を描いたり家の中で1人でできる事に興味があり、大分やんちゃでよくケガをしていたといいます。

 

4歳ぐらいの頃、母に「仲良くやっていけない」と泣きながら相談した事で仲良く遊んでいましたが相手の出方が予想外だった時に臨機応変に対応できるタイプではなかったようで、そこから少しずつ1人で遊ぶことを覚えていったといいます。

 

後に1人で音楽を聴いたりする楽しさを発見した事をあの日が分岐点だったと語っています。

 

「将来の夢」は歌手になりたい事や歌う事が特別だとは思っておらず「暇だからおしゃべりしよう」のような感覚で歌っていたといい、1つあったのは、少し好きな男子が「僕はパン屋さんになる」と言っていたため「じゃあ私はそれを売る」「パン屋になるの? じゃあそのパン売ってあげる!」など特別何かになりたいというのはなく、ぼんやりしていたといいます。

 

学校にいる時は幼稚園の延長線上で基本的には外で遊ぶのが好きな子供であり、仲良しグループでアイドルごっこをしたりもしていたといいます。

 

教室で腕相撲をして戦うのが好きでしたが、ある時期を境に女子と男子が一緒に遊ぶのはちょっとのような雰囲気はショックで「みんな仲間なのに、なんで急に溝ができた?」と理解できなかったといいます。

 

「子供でいられなくなった」と自覚してから急に性格が陰に入り、その頃から区切りや節目に敏感になったそうです。

 

小学生の時の好きな授業は言葉が好きだった事から国語で、本はすごく読んでいたといい、幼稚園の時などは漢字が読めませんでしたが、強がってふりがなをふってもらい一生懸命に読んでいたといいます。

 

音楽の授業は当初は苦手で皆の前で歌ったりして1人ずつ楽器を披露したりするのが恥ずかしく、人前に立ちたいと思う反面人に注目されたくないという部分も結構あったそうで、朗読だけは別で上手く読めたわけではありませんでしたが好きだったそうです。

 

勉強は中学生ぐらいまでは特に好きでしたが「自分が楽しいな」思うことしかしなかったと語っています。

歌うのは好きでしたが1人の世界に入り込むようになった事で歌謡曲に熱中していったといき、歌うとストレスが発散できるため母によくカラオケに連れていってもらったといいます。

 

母は聴いてるだけでしたが「疲れたからお母さんも歌ってよ」とマイクを渡したところ松田聖子といった歌謡曲の歌を聴かせてくれたそうです。

 

小学6年生の時までは「歌が好き、表現者になりたい、でも自分にはまだ……」と考えていましたが、母の歌声がきっかけで歌謡曲に熱中するようになり、リアルタイムのヒット曲も追っていたため自分の中に2つの道ができたようだったといいます。

芸能の仕事は小学生の頃に読んでいた漫画『こどものおもちゃ』を読み「芸能人っていいな」と思ったりSPEEDの活躍を見て憧れはあったそうで、沖縄アクターズスクールの皆が活躍しているのを見て母を「なぜ私は沖縄にいないんだろう」と問い詰めて困らせたりしていたそうです。

中学時代は人と上手く接する事もしようとも思っておらず、「そういう自分から抜け出したい」という気持ちから中学1年生の時の夏、13歳の時にオーディション雑誌を見て知ったオーディションに応募するも落選。

 

その時は歌を歌うオーディションでしたが「とりあえず自分を見てほしい」という気持ちが大きかったような気がしていたそうで、歌は家とカラオケで練習をしており練習としてのカラオケは母親に連れて行ってもらいレッスンのように聞いてくれ、両親は「そうなんだ」のような反応でけっこうさらっとしていたそうです。

 

しかし「受けるからには責任を持って」と言われた「応援はするけど全てを助けられるわけじゃないから、それがわかっているんだったらいいんじゃない」という感じだったといいます。

 

中島さんはが一人っ子ですが理解してほしかったため、小さい時から常に両親には自分の好きなものを全て伝え、履歴書は自身で書き、丁度その時から昭和アイドルが凄く好きだったためそれがいかに好きかという事をレポート用紙1枚に書いて一緒に送っていたそうです。

 

当時は東京に行くという事自体が凄く大きな事であったから都会がどういうところかというのも自身よく知らず、そこが多分皆の興味のポイントだったそうで、東京でのオーディションでは自由曲2曲歌唱とカメラテストと面接があり、特に面接の比重はとても大きかったと語っています。

 

オーディションでは尻込みしたりというのはありませんでしたが歌のイントロや面接が始まった時には多少は緊張していましたが面接官と話すのが楽しかったそうで、自分の歌を聞いてくれる事は日常生活ではあまりなかった事からそのチャレンジがとにかく楽しかったといいます。

中学1年生の冬からレッスンを始め、その後は毎週末は東京でレッスンをしており、1度目のオーディションに落選しても「他にもオーディションを受けられるチャンスだ」と2003年に2度目のオーディションであるスターダストプロモーションへ応募した結果、合格を勝ち取りました。

 

その時オーディション雑誌を「茨城なら東京までそう遠くはないし、自分にもできるのかな」と読むのが楽しみになっておりその事務所に履歴書を送っていたそうですが、受かると思い送っておらず「オーディションとレッスン料がタダだ」と書いてありましたが子供ながらに惹かれて送っただけであったといういます。

その間も自分なりに歌の練習を続けた一方半年間で学校では色々あり、テニス部に所属していましたが土日はレッスンで部活動ができなくなってしまう事から合格する前の秋に退部し、そこできっぱり決心がついたという感じであったといいます。

 

その時は考えが極端だったと語っており、できなくなった時に周囲に「ほらね」と言われるのが嫌であった事から「こっちに行くならこっちは切り捨てなきゃ」のような気持ちがあったといいます。

東京でのレッスンは週1、歌と演技のレッスンが1時間半ずつで、最初の頃は土曜日だけでしたが少し経ってからは日曜日にダンスのレッスンも追加してくれたそうです。


地方から来ていた人物のための宿泊施設が事務所にあったため、3~4年間土日に泊まっていた事もあり、そこはオーディションで行ったことのある場所だったため両親も「わかるだろう」とレッスンには一度も来ていなかったといい、中島さん本人も「ついて来なくて大丈夫だ」と言っていたといいます。

休みの日に友人と遊んだ記憶はほぼなく勉強面では放課後に塾に通っていましたが、授業を聞けばわかることもたくさんあったため授業だけは聞いていたそうで、土日は帰ってくるのも夜だった事からできるだけ平日の時間を勉強に使うように頑張っていたと語っています。

レッスンが全て終わってからの何時間かは宿泊先の部屋で復習の時間に使い、飯は7時か8時ぐらいでどんな服が流行っているのか見たり、散歩したりする事もあったそうで、東京都のCDショップに並んでいるCDを端から視聴したりもしていたそうです。

 

洋服が凄く好きでしたが東京には掘り出し物がいっぱいあり、決められた小遣いの中で好きなものを安く何着買えるかとやりくりしていたそうですが、中学生であった事から小遣いも少なく東京では食費も電車代もすごくかかるため買うものも本当に最低限に抑えていたそうです(2011年時点でも自分の持ち物はどれも10年ぐらい大事に使っているものが多く、子供の頃から長く持っているものがいっぱいあるため元々そこまで頻繁に買い物をするタイプではないのかもしれないと語っています)。

歌はボーカルの先生のおかげで180度考えが変わり、レッスンを受けてからは例え客が一人でも「その人に声が届かなかったら何の意味もないんだ」とプロの歌い手としての心構えを学んだそうです。

演技のレッスンでは沢山の先輩と一緒に受講する事もあり、始めは何をどうしていいのかわからない状況だったそうですが、「恥ずかしい」「私には無理……など言ってる場合じゃないな」と感じたため自分から出てきたものを演技にぶつけ、「できないのは当たり前、せめてためらう素振りだけは絶対に見せないように」と気をつけ率先して質問したりもしていたそうです。

中学1年生の時のオーディションは受かると思っておらず、自分の声にコンプレックスがあり声に特徴のある歌手の曲を聴く事が多く比べていた時に「なんて個性のない、かわい気のない声なんだろう」と思っていたそうです。

 

あまり話す事も好きではなく声で誰かに何かを伝える事に抵抗があり、歌の技術に対する自信もなく自分が歌を好きな事に対する自信だけしかなかったといい、「歌うのも楽しいし、演じるのも楽しいが、やっぱり自分は……」という思いで声が印象的な人物に出会ったところ「どうやったらこういう声になれるんだろう?」と思ったりしていましたが、中島さんの持って生まれた声はこれしかなく「どうやったらこれを活かせるんだろう?」と思えるようになったといいます。

先生には相談しておらず、あまりにも自信がなく周囲に決定的な何かを言われるのが怖かったのかもしれないといい、先生に「いい声だね」と褒めてくれても素直に信じられず声の悩みは常に自分の中にひっかかっていたことの一つだったといいます。

小学校の時「声優さんはどうやったらなれるんだろう?」と好きな漫画のヒロインの声や相手役の男の子の声など漫画雑誌を最初から最後まで声に出して全部のキャラクターを演じており、一人アフレコでそのキャラクターごとにイメージしている声がありますがどうやっても自分ではそれに適った声が出せず、「私にはきっと無理だ」と落ち込んでしまったといいます。

 

声は秘めた悩みでしたが、中学生ぐらいになってからは「いつもどうにかできないかな」と思っていたそうです。

中学3年生の高校受験の時は色々な面で焦っており、例えば土日に学校で模試があったとしても終わったらすぐレッスンに行き、「週末がハードだから」と言って平日休んでいる訳にもいかず夢も学業も両立しなければならず、行きたい高校に目標を設定して「やれるだけのことはやろう」と頑張るしかなかったそうで、志望校に受かった時はほっとしたといいます。

両親は高校進学の時も事務所の中でも歌の発表会があったり演技レッスンでは初級から昇級したり、色々ステップアップのきっかけがあった時期だったため「今は勉強もがんばりつつ、レッスンも続けて通った方がいいよ」と応援してくれたその後、アイドル予備軍として『Harajukuロンチャーズ・夏』に出演し以後4~5年ぐらい事務所でレッスンを重ねます。

高校に進学してからは仕事がなかなか決まらず焦ってしまい、子供の頃から「18歳になったら家を出る」と決めていたそうです。

 

活動は同世代の人物もたくさんおり、学校とは違うフィールドで仲間ができ「楽しい」そうですが、芸事について真面目には考えておらず、同じ時期に事務所に所属委していた人物達は皆雑誌の専属モデルやCMの仕事を持っていましたが、中島さんは1つもオーディションに受からなかったといいます。

 

15歳の頃、レッスンを受けるのは無料だった事から「とりあえず高校3年生まではがんばってみよう」と目標を決めたそうです。

「私、この先もずっと(オーディションには)受からないかも」と落ち込んだ事も沢山あり、高校3年生を目途に何にも受からなかったらきっぱり断念して別の道を進もうと自分の中の「決まり」を設定しており、「そうなるとあと何年もないし、とにかく何をしたらいいんだろう」と考える日々であった時に「ダメなのかも」という気持ちもだんだん強くなりましたが、自分で作った期限をよりどころに「そこまでは続けよう」と思ったといいます。

そして2007年、マクロスシリーズ新作のヒロイン(歌姫)を決める「Victor Vocal&Voice Audition」に応募し約5,000通の応募の中から合格者に選ばれ、同年8月18日に日本青年館で行われたイベント「マクロス25周年記念ライブ」にてファンの前で劇中歌「VOICES」を歌唱しました。

翌年の2008年放送開始の『マクロスF』のランカ・リー役で声優デビューし、シングル「星間飛行」(ランカ・リー=中島愛名義、オリコン週間チャート最高5位)と「ライオン」(May'nとのデュエット、オリコン週間チャート最高3位)でフライングドッグより歌手デビューを果たしました。

 



仕事を始めて少し経った頃飯が食べられなくなってしまった時期があり、ある日、丁度ライブとライブの間で休みがありそこで少し立ち止まってしまい、振り返っていた時に自分の抱えているプレッシャーの大きさを実感していたそうです。

 

それまでは自分の意志には絶対的な自信がありましたがあまりのプレッシャーに少し揺らいで悲しくなってしまい、人から厳しい事を言われて挫折する事はなかったものの忙しく思ったように動けない自分に対しての不安が積み重なり目標さえ見失ってしまったそうです。

 

そういう自分にがっかりしており一人暮らしを始めたばかりで、家に帰ると一人で抜け殻のようになってしまい初めて「もうダメかもしれない」と思いましたが、自分を待っていてくれるファンやスタッフがいてくれた事で乗り越えたといいます。

 

それは凄く幸せな事で「簡単にダメだとか辞めるとか、そんなこと言っていたら自分にも応援してくださる皆さんにも失礼だ」、「そんな後ろ向きなことは跳ね飛ばせるようになろう」と強く思ったといいます。

2009年発売のシングル『天使になりたい』で個人名義での音楽活動を始めてからは歌手としての活動も多くなり、同年の第3回声優アワードにて歌唱賞を受賞しました。

 

2010年からは『たまゆら』シリーズのエンディングテーマを数多く担当し、2012年のシングル「TRY UNITE!/Hello!」を機にスウェーデン出身のプロデューサー・ラスマス・フェイバーとのコラボレーションを展開しました。

2012年末にはデビュー5周年企画「まめぐ5本の矢」が始まり、2014年には『ハピネスチャージプリキュア!』の愛乃めぐみ/キュアラブリー役でTVアニメ初主演を果たしました(遠い夢だったというプリキュアシリーズへの出演が実現しました)。

2013年12月、中島愛名義での音楽活動を2014年3月末日をもって無期限活動休止とする事が発表され、2014年3月20日開催のファイナルライブのMCでは「いつか胸を張って『ただいま』と言えるようになるのが目標です。待っていただく時間をいただきたいと思います」と語り、同年4月末には公式ブログの更新を終了、その後公式HPとともに閉鎖されました。

2014年7月末にはスターダストプロモーションを退所し、その後フリーで活動を経て(『ハピネスチャージプリキュア!』の放送終了後はフリー転向前に出演が決まっていた作品の他にゲームやCMなどでは過去に担当した持ち役の新録などに参加する程度でした)2016年12月1日に声優・歌手活動の本格的な再開とe-stone musicへの所属を発表し、新公式サイト及び公式ファンクラブ「LOVE with YOU」を開設しました。

 

2017年2月15日に3年ぶりの復帰作『ワタシノセカイ』を発売し6月4日に単独ライブを開催しました。

歌手活動再開後は少女時代から探求している「80年代アイドル歌謡」への想いを形にする機会が増え、デビュー10周年となる2018年は関連書籍の出版や歌番組での斉藤由貴との共演が叶い、2019年は自身初プロデュースによるカヴァーミニアルバム「ラブリー・タイム・トラベル」をリリースしました。

 

2022年3月31日付でe-stone musicを退所し、翌4月1日より音楽活動とマネジメントはストロボミュージック、声優活動ではステイラックと業務提携しました。