今日は私が愛してやまない声優の1人・

山口勝平さんの誕生日です!

 

おめでとうございます!

 

山口勝平さんは1965年5月23日生まれ、双子座のB型。

 

福岡県福岡市博多区出身で、芸能事務所は悟空及びその代表も、息子は同じく声優の山口竜之介さん、娘は落語家で声優の山口茜さんと声優一家です。

 


福岡県福岡市博多区の櫛田神社の近くで暮らしていた博多っ子だった山口さんは小さい頃は大工(父親は大工でした)や動物、船や海が好きだった事から動物関係の仕事や保父、小学校の教師や船乗り、カチンコを打つ事がいいなと考えて助監督になりたいと考えていたといいます。


その頃から漫画、アニメが好きだったため声優に興味がなかったわけではありませんでしたが、明確に職業として意識してはいなかったそうです。

小学校から中学1年生まで野球部に所属して野球をしていたそうで、ポジションはセカンドと、控えてピッチャーもしていたそうです。


中学2年生で転校し、サッカー部に入部したかったものの体育の時間に足を怪我して医者から「足が治るまでサッカーやるな」と言われ、勝手に「一生サッカーできないんだ」と悲愴していたといいます。


スポーツは見るよりもやる方が好きで1991年時点はスポーツはしていないといいます。

高校時代はバンドでサイドギターでボーカル担当しながらもバイクといった他の事に熱中し始め、好きだったアニメを見なくなったそうです。

福岡にいた時はケンタッキー・フライド・チキンと年末だけ魚市場でアルバイトをしていたそうで、もらったお金は全部ギターとバイクに注ぎ込み、夏休みには映画館でアイスを売る派遣のようなアルバイトをしていたそうです。


当時は福岡県福岡市博多区中洲に映画館がまとまって建っていたため、友人とシフト表をやりくりして色々な映画館に行っていたそうであの頃は趣味と実績を兼ねた至福の時間を過ごしていたといいます。


当時上映していたタイトルはほとんど観ており、お金を払っても観るべき映画とそうでない映画の見分けが付くようになりました。

幼稚園の頃からお遊戯会、小学校の学芸会で演じる事は好きであり、高校時代の三者面談の時に教師と母親に初めて「役者になりたい」と言って後に「東京に出てきたかっただけなのかもしれません」といい、「東京に出たい」という気持ちが強く東京に出るための手段として役者の仕事を選びます。

いきなり「役者になりたい」と言っても両親の反対はなく昔から勉強勉強と言うような事はなく、他人と真正面から向き合っていくことを重んじるような人物たちだったため「東京で、一人でがんばってみるのもいい勉強だから行ってきなさい」と快く送り出してくれたそうです。

母は寂しかったといい、上京当時は「親に寂しい思いをさせてまでやらなくちゃいけない仕事なんだ」という覚悟もなかったそうで、その時に「側にいてあげられないのはやはりひどいことなんだ」「東京に出てきて役者になったことが、人生最大の親不孝だろう」「自分が親になってみて、初めて親に対して申しわけなかったな」と感じるようになったといいます。

但しいつまでもダラダラとしていても意味がないため「5年やってみてダメだったら戻る」という約束で福岡県立筑前高等学校卒業後、漠然と「役者になってみたい」と1984年、19歳の時に東京へ移住します。

高校にあった専門学校ガイドのようなものを見て進路を探し、演劇関係では専門学校東京アナウンス学院と丹波道場の2つしか掲載されていませんでした。


丹波道場の練習風景の写真を見ていたところ先生が竹刀を持ち、「これは怖いなぁ」と漠然と「役者になろう」という程度の感覚しかなかったため「こんな怖いとこいけない」と行かず、福岡なまりがあったのか発音を直そうと新聞奨学生になり、専門学校東京アナウンス学院に入学します。


 専門学校在学中に週1回日曜だけの声優養成所の広告を見て声優養成所の存在を知り、養成所のサンハウスミュージックに通います。

職業としての声優を意識していない頃から好きだった野沢雅子さんが講師をしていた学校の広告を見つけ、後に師匠になる故・肝付兼太さんも講師をしており「それでもう、その養成所に通うしかない」と肝付さんののクラスに配属します(2009年時点でも憧れたり尊敬する先輩でも肝付さんと野沢さんを挙げています)。


その頃の肝付は劇団21世紀FOXを結成されたばかりで初めて役者になるための手段として劇団という道がある事を知り、その時に「舞台は面白いよ」「舞台はすごく楽しいよ」と何度も聞かされているうちに「じゃあ舞台をやってみよう」と劇団21世紀FOXに入団して大道具・小道具のようなスタッフワークから始めます(同劇団に専念するために半年で同アナウンス学院を自主退学しました)。


以前は様々な理由で役者を辞める話を聞くと「こんなに楽しい熱中できることを辞めるなんて、自分の夢を諦めるなんて、いったいどれだけのつらさがあるんだろう」と決断ができなかった事から役者を続けてきましたが、長く活動していくうちに「辞めるのは簡単だな」と考えるようになったといいます。


役者を辞めようとは思っておらず丁度デビューしたのが父との約束の5年目だったため「免罪符ができた、ラッキー」と2012年時点では楽しい事から役者を続けていけるといいます。

お金がなかったためアルバイトに明け暮れていましたが、それ以外の時間は全部劇団につぎ込み、趣味に回すようなお金もありませんでしたが芝居が趣味のようなものを自分全てで2012年時点でもその当時に培ってきたものが自分の根っこにあると感じているといいます。

劇団に入団してから僅か1年くらいで端役として初めて舞台を踏み、北村想の『踊子 ~THE DANCER MURDER CASE~』の主人公である少年探偵役で初主役を飾ります。


その後、台詞は「教室の私語は厳禁です」の一言だけの黒子役で出演していた舞台を見ていた音響監督の斯波重治さんに「声優にならないか」と声をかけてもらった事がきっかけで1988年、23歳の時にTVアニメ『どんどんドメルとロン』の船員A役を皮切りに声優としても活動するようになります(当時は「このまま一生舞台役者のままでいる」と思っていましたが「何かしらチャレンジしたい」とも思っていたそうです)。


最初は3回くらいガヤの仕事をした後、1989年にTVアニメ『らんま1/2』の早乙女乱馬役で初主演を果たし、声優としてのキャリアを本格的に積み始めるようになります(デビュー当時、性格から声優仲間で「甘えん坊将軍」という渾名を付けられました)。


山口さんは後に『らんま1/2』の次回作である『犬夜叉』の主人公・犬夜叉役に抜擢され(原作者である高橋留美子先生の方から指名)、更に次回作の『境界のRINNE』では主人公の父親・六道鯖人役を担当し、高橋留美子原作アニメの常連声優となります(またOVA『うる星やつら』の白井コースケ役、同作リメイク版のモブ役にも出演)。


初めてオーディションで受かった役は『魔女の宅急便』のトンボ役で、『魔女の宅急便』と『らんま1/2』なしでは声優のスタートは切れなかったと語っています。


当初はスーパーでのアルバイトを行っていましたが『らんま1/2』放送開始から1年ほど経った頃「自分は声優としてやっていくんだ」と腹をくくりバイトを辞めました。


1991年公開の劇場アニメ『アルスラーン戦記』のアルスラーン役で映画初主演を飾り、その後も多くの作品に出演し東京国際アニメフェア2003にて個人の声優賞を受賞しました。

2004年5月9日に芸能プロダクションである悟空を設立し、2017年10月27日には滋賀県長浜市の長浜市PR大使(声の観光大使)に就任され(また、長浜観光協会のPRキャラクター「ひでよしくん」の声も担当)、更に2019年には第13回声優アワードにて富山敬賞を受賞しました。



吹き替えではルーニー・テューンズシリーズのバッグス・バニー役を『スペース・ジャム』より現在まで長きに渡り担当しています(バッグス決め台詞「どったのセンセー?」の彼独特の言い回しが特に有名)。


また、声優の他にもイラストレーターとしての顔も持ち、アニメ・声優関係の雑誌・本を中心にイラストを数多く提供しています。



国民的アニメに多数出演しながら俳優、イラストレーターと様々な方面で活躍しているベテラン声優さんです!