今日は私の愛してやまない声優の1人・

下野紘さんの誕生日です!

 

おめでとうございます!

 

下野紘さんは1980年4月21日生まれ、牡羊座のB型。

 

東京都出身で、所属事務所はアイムエンタープライズとなっております。

 

1歳くらいから人に注目される事が好きであり、物語を作って友人に聞かせたり本の読み聞かせをしていたそうで、6歳の頃には父がファミコンを買って来てくれた事がきっかけでゲームにも物凄く熱中していたという下野さん。

5歳の頃は『ウルトラマン』の再放送でウルトラマンの絵を描いてウルトラマンに、パトカーがかっこよく乗りたかったという理由で警察官になりたいと思っていたといいます(また、母親が保育士だった事から保育士になろうと考えていました)。

小学1年生の頃、アニメをビデオに録画して面白いシーンを妹達と演じたり、マイクでカセットテープに声を吹き込んで遊んだりテレビの出演者のモノマネをしたりしていたそうで、小学5年生の時にバラエティ番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)に影響を受けてお笑い芸人になりたかったといいます。

 

中学1年生になってからはアニメを熱心に見るようになり、中学2年生のくらいの時、友人のつてで知った声優雑誌を読んでみたところ「格好いい人、可愛い人がいっぱいいるんだ」「こんな仕事があるのか」と声優に憧れます。
 

中学2年生の頃に見ていた『無責任艦長タイラー』(1993年放送開始、放送当時は中学1年生)が声優になるきっかけとなった作品であり、経緯は風邪を引いて寝込んでいた時に何もする事がなく夕方テレビを観ていたら偶々チャンネルを変えたところこのアニメを放送していた事でした(何度かビデオに録画もしていましたが、観てない回も多かったそうです)。

 

中学3年生の時、受験の悩みや初めて出来た彼に振られた傷心を癒やすために見たところ主人公・タイラー(声:故・辻谷耕史)に「こんな大人になりたい」「おおらかでいつもニコニコしている大人になりたい」と憧れを抱くようになり、また声優ラジオやドラマCDを聴いて「こんな楽しい世界があるんだ」「すごく楽しそうだなぁ!」「なんて楽しそうな仕事なんだろう」と声優を志すようになりました(ドラマCDを聴きながら「ここ、明らかに台本どおりじゃないよね? アドリブでこんなに世界が広がるんだ」ともワクワクしていました)。

 

この頃は日本ナレーション演技研究所が中学卒業以上なら通えることも知っていたため、中学卒業後、母親に「俺、高校行かないで声優になる!」と宣言していたところ母親に「大学行けとは言わないけど、高校だけは出てくれ。それでも声優になりたかったら、好きにしていい」と言われたため、理科、化学が結構好きである事から高校の理数系のコースに進学します。

 

好きな科目も実験系が好きだったため、前述の理科や音楽で歌を歌ったりするのが好きだったそうで、高校の選択授業でも「声優になるために、一番役に立つのはどんなことだろう?」と考え、漢字を選択していました(台本を読む時に「きっと役に立つぞ」とそのくらい、高校の3年間は「声優になる」という思いをベースに動いていました)。

 

高校卒業後、受講料が安く週1回のコースだと他の専門学校の通常コースの約1/3くらいで済む事、芝居の勉強のほかにもあまりお金もない事から、アルバイトをして「安くて芝居の勉強をしながら働ける」「週1回のレッスンなら、自分の時間を持てるだろう」と思い、日本ナレーション演技研究所に入所します(両親は「子どもには、とにかく好きなことをやらせてあげたい」と思っていたようで、養成所のお金は両親が快く出してくれました)。

養成所時代で印象的だった授業は基礎科と本科で指導してくれた先生が舞台を中心に活動していた人物だったため、感情開放は印象的であったそうです。

 

まずシチュエーションで花を摘み「その花がきれいだな」という芝居をした後にレッスン場の明かりを消して横になり、その時に講師から「深呼吸して気持ちをリラックスするように」「桜の樹を思い浮かべて、自分の頭の上に桜の樹が立っているのを見ている気持ちになり、風に吹かれて桜の花びらが散った様子を見てどんな気持ちになったか想像してみなさい」と言われ、再び芝居をしたところ当初は棒読みだったセリフも色々な感情が詰まったセリフになり「感情ってこんなに大切なものなんだ」と再認識させてくれたといいます。

声優を志している一方あがり症で、子供の頃から人と会話、人前で表現、芝居をするのが苦手だったそうで、「声優になりたい」というのは「面白い仕事がをしたい」という一心であり、「注目されたい」という事は決してなかったといいます。

 

養成所時代で課題がある時は家で時間を見つけては練習をしており、作業自体は辛くなかったそうですが、しかし人前に出るのが失敗が何より怖く、当日に皆の前発表するのが嫌で嫌でしょうがなかったといいます。

日本ナレーション演技研究所在学中に講師が申し込んでくれた事務所オーディションを受け、1次審査の通過後に2次審査用のデモテープを作る事になり、家のコンポにつないで買ったマイクを吹き込んでいたそうで、録音レベルが低く声が小さいなど試行錯誤しているうちにデモテープ提出の締め切り日になり、デモテープに「家の機材の関係で声は小さいですがよろしくお願いします」と一筆添えて提出していました。

 

その時は「これはダメだろうな」と断念していましたが2次審査に合格し、アイムエンタープライズで3次審査の面接を受けたところ見事合格し、20歳の時にアイムエンタープライズ所属となりました(「入所してプロになるのは3~4年後かな」と考えていたそうですが、アイムエンタープライズ所属になった時は「入っちゃった♪」という感じだったそうです)。

2001年、ゲーム『リリーのアトリエ〜ザールブルグの錬金術士3〜』のテオ・モーンマイヤー役で声優デビューし、翌年の2002年には『ラーゼフォン』の主人公・神名綾人役でTVアニメ初出演かつ初主演を勝ち取りました。

 

 

神名綾人役に抜擢された当時は日ナレの研修生でアニメ収録の経験もなく、演じる一週間前に授業で初めてマイクレッスンを受けたそうで、この頃はオーディションに落ち続けており「このオーディションがダメだったら、声優を辞めよう。自分には才能ない!」「こんなにも苦しむくらいなら、すっぱり諦めて別の職業に就いた方がいいのかな」「これがダメだったら声優あきらめよう」と決心していたそうです。

 

自分の人生プランの中では22歳で事務所に所属し、23か24歳くらいでアニメデビューをしてその後は徐々に役をくれ、その後はアニメで主役と計画していたため、主役を務める嬉しさ以上に緊張とプレッシャーでいっぱいいっぱいだったそうで、気持ちが上手く対応できずに苦労し、ほとんど右も左も分からない状態でした。

 

収録現場には有名な声優達ばかりで挨拶をするタイミングすら分からず「取って食われたらどうしよう」という被害妄想まで出てきており、挨拶へ行っていた時は皆ものすごく優しく「それまでの自分の恐怖心はなんだったんだろう」と逆に気恥ずかしくなってしまったといいます。

 

物事を真っ直ぐに受け止めすぎる傾向があり「失敗したら終わりだ!」と考え込んでついマイナス思考になってしまった時に、気持ちの励みになっているものはファンレターで2014年時点でも「多くの方が自分の演技に対して色々なことを感じてくださるんだ」と励みになっているそうです。

収録後半年ほど経った頃、授業で講師に「お前は芝居以前に、生きることに必死過ぎる」と言われ、その後沢木郁也の指摘をきっかけに力の抜き方を少しずつ覚えていき(それまではレッスンが怖くて行きたくない思いでいっぱいいっぱいになってしまい、ずる休みをしたこともあったそうです)、その言葉のおかげで色々な事に挑戦するのが楽しくなったといいます。

 

しかしその後のオーディションは落ち続け大きな仕事もなくなってしまいますが2005年、『CLUSTER EDGE』の主人公、アゲート・フローライト役に抜擢された事がきっかけでレギュラーが増えるようになり、「やっと一人前の声優になれたんだな」と実感しました(それまでは一生懸命な役、優しい役、内向的な役はできましたが底抜けに明るいキャラクターが中々できず、その原因は自身の気持ちに「迷いがあったからだ」と思っており、それ以降明るいキャラクターを演じられるようになりました)。

 

2016年3月16日、声優デビュー15周年を記念してシングル「リアル-REAL-」でポニーキャニオンより歌手デビュー(それ以前に2003年10月8日から2007年10月8日まで声優ユニット「Root」のリーダーを務めていました)、2021年9月28日には自身のブログで十数年前に結婚し二児の父である事を公表しました。

 

 

様々な方面で活躍する大人気声優さんです!