すっかり忘れちゃいましたが、
昨日は私の愛してやまない声優の1人・
野島健児さんの誕生日でした!

おめでとうございました(遅)!

早速プロフィールの紹介を!

野島健児さんは1976年3月16日生まれ、魚座のA型。

生まれは東京都杉並区、育ちは東京都田無市(現:西東京市)で、所属事務所は青二プロダクションとなっております。

父が野島昭生、兄が野島裕史と声優ファミリーとしても有名ですよね♪

物心つく前から父・昭生の声をテレビで見聞きし、ポスターに昭生の姿が写ってる情景を見て育ったため、役者というのが身近な仕事の一つという意識があったという野島さん。

周囲の友人と明らかに違いを感じたのは学校で人形劇などの教育放送を見ていた時で、テレビから流れる声が父・昭生の声だった時には誇らしい気分であったそうです。

自慢気に「あれ、パパの声だよ」と言いながら、「ああ、僕もいつかああいうのをやりたいな」とも思い、家にも父の台本を見せてもらったり、実際に父が練習しているところも見ており、そのように父が真面目に仕事をしている姿を見るというのは本人にとって「凄く良かった」と感じていたそうです。

『平家物語』の冒頭部分から始まり、「あいうえお」から早口言葉まで一連を毎朝聞き、子供心に「すごいな」と思い『平家物語』を暗記し、早口言葉も覚えてしまうなど既に日常の遊びになっていたそうです。

子供の頃は古谷徹をはじめ水島裕、小山茉美らが家に遊びに来たりしていましたが、家庭内では「アニメ禁止」であった事からあまりアニメを観てなかったそうですが、それでも数少ないアニメ視聴時間中には父・昭生と親しい声優達を何度も目にする機会があったため、テレビでアニメを見ていても声を聞いて「ああ古谷徹さんだ!」、「古川登志夫さんだ!」など中の人が頭に浮かび、役者達に意識がいっていたかもしれないと語っています。

一度父に「『Dr.スランプ アラレちゃん』が好きだ」と話したところ後に則巻千兵衛役の内海賢二が「おお!健児かあ、元気かあ」と電話してきてくれた事があり、千兵衛とは違うそのキャラクターの先にいる「人間」を感じ、「そこでアニメはこんなに温かい人達がやっているんだ」と感銘を受けたそうです。

役者としての内海を強く感じドキドキしており、職業としての声優は他の人物より早く認識していたと語っています。

当初は舞台、映画などに出演する役者志望で、元々出たがりの恥ずかしがり屋であり、人見知りはしますが、物心ついた頃から目立ちたがり屋だったところもあったそうです。

「人前に出ることを面白い」と思ったきっかけは小学1年生の時に学芸会でしていた舞台『ブレーメンの音楽隊』で、「主人公よりもいろいろと自由に演じられる」と思い盗賊役に立候補したものの、体が小さかったそうです。

立った時に舞台を走り回って台詞に対する客席の反応や生で返ってくる感覚が新鮮で、それが快感になって「舞台を楽しい」、「これは楽しいぞ」と考えてるようになり、その後は心の中で「いつか人前に立つ仕事をしたい」と思い続けていたそうです。

子供の頃から、自分で作品を書いて両親の前で発表したり、紙芝居を作って演じたり、ビデオで人形を撮影してアフレコしていた映像を見せたり、脚本を書いて近所の子供を集めた芝居をしていたりしており、「子役をやりたい」と父に話した事がありましたが、母は芸能活動に反対していました。

中学時代に一家揃って大分県竹田市荻町の山奥に移住し、進路の際に農業をこのまま続けていくのか、もしくは他の職業にするか迷った末父に「俳優やりたいんだけど、親父の力で映画の主役できないか?」と相談したところ「そんな簡単にできるわけねぇだろ、バカ野郎!」と叱られます。

「役者になる勉強をしなくちゃいけない」、「まずは演技について勉強しなさい」と言われコンスタンチン・スタニスラフスキーのスタニスラフスキー・システムを渡されるも放置しますが、「俺もやっぱり出たい」という気持ちを父に相談して「じゃあもう一度、東京に出るか」と決断し、父から青二プロダクションの俳優養成所・青二塾を勧められ、1995年に東京に戻り青二塾東京校へ通い始めます(入塾するまで青二が声優事務所だった事は知らなかったそうです)。

本人は父・昭生の息子だと青二塾の同級生には誰にも言わなかったそうで、当初は「隠していたほうが何かといいか」と思い黙っていたそうですが後半になるにつれて仲良くなったため、話の流れの中でポロポロ漏れていったそうです。

青二塾にはゲスト講師として神谷明といったベテラン声優が授業に来ており、物心着く前からの健児を知っていたため名字ではなく「健児くん」と下の名前で呼んでおり、親しく話しかけてくる度にヒヤヒヤしていましたが特別扱いをされるわけでもないため乗り切りました。

青二塾時代は無遅刻無欠席、やる気のある真面目な生徒だった一方、初期は慣れない人物の多いところで隠し事もしつつ地味な子でした。

初めの半年くらいは「おとなしい生徒」として認識され、同塾で声優の訓練を始めた際にはあまりにも自分が出来ない事に驚き、初めの半年間は講師から「声が小さい」、「暗い」しか言われませんでしたが、負けず嫌いだった事から講師とはよくぶつかっていたそうです。

友人と関わっていくうちに「暗い」は自然と解消された一方、自分が思っている以上に自分の声が小さい事を自覚するまでは少し時間がかかったそうで、「繊細な声の表現は、大きな声がきちんと出せるようになった上でやることだ」「そこの考え方を改めなきゃいけない」と気づき、カラオケの時「歌うって楽しいな」と思い、何度か行くうちに自然と大きな声も出るようになったそうです。

『わが町』の冒頭の案内役の台詞を覚えて演じる授業で思い切りしていたところ先生や同級生に「野島くんて、あんなにハッチャけた人だっけ?」と言われ、演技をする事で自分が思っていた自分との距離が近づき「あ、俺はここにいたんだ」と自分の殻を破れたといいます(2009年時点でもその芝居のことは覚えているそうです)。

卒業公演では創作SF時代劇をして源義経と戦う想定のストーリーで第一希望の義経役は叶わなかったものの樋口兼光役を演じ「兼光役で本当によかった」と思ったそうです。

公演後の入所試験の日が丁度誕生日の3月16日で、「これはキタ!」と思ってたそうで「謎」の自信家だった事から「絶対受かる」と思っており、オーディションの時からどこか確信があったそうです。

試験は「今日、僕の誕生日なんですよ!」という話から始め、ナレーションと芝居の実技を行うも芝居は「普通に演じても面白くないよな」と思いふざけて演じ失敗しますが、試験官から「ナレーションはできるね」という言い方をされ、ナレーションだけ評価されて合格し(無遅刻無欠席に助けられ、資料を見た試験官がその場で「あぁ、無遅刻無欠席なんだね。もし1回でも遅刻があったら落とそうと思ってた」と述べ「あ、じゃあ受かったと思っていいんですね!」と聞いたところ「いや、それは……」と濁していたそうです)、その後青二プロダクションに所属します。

1996年にゲーム『るぷぷキューブルプ☆さらだ』で声優デビューし、同年に『ゲゲゲの鬼太郎(第4作)』でTVアニメデビューを果たしました。

2000年にゲーム『スーパーロボット大戦α』で『超時空要塞マクロス』の主人公である一条輝役に急逝した長谷有洋の後任に抜擢され、以降の「マクロスシリーズ」に関わるゲームでは輝の声を担当するようになります。

2003年にNHKで放送された『ヤング・スーパーマン』では地球人を凌駕する頑健な肉体と次第に様々な超能力が覚醒していき苦悩する真面目な主人公・クラーク・ジョゼフ・ケント役に抜擢され、2013年のファイナルシーズンまでおよそ10年に渡り演じ続けました。

2006年に同じ青二プロダクションに所属する神谷浩史が交通事故による一時休業に伴い『ハチミツとクローバーII』の最終回で竹本祐太役に代役として急遽抜擢され、更に『爆球Hit!クラッシュビーダマンの神岡テルマ役、『Kanon(第2期)』久瀬役の代役・新キャストに選ばれました。

声優の他にも音楽活動をしており、2004年には同じく声優の沢口千恵、沢口の妹でミュージシャンの石橋優子、友人で同じくミュージシャンの鈴木利宗と4人で音楽と朗読のユニット「BELOVED」、菅沼久義とのユニット「COCO」を結成し、10年後の2014年にアルバム『いつかどこかの僕について』で待望のソロデビューを果たしました。


レジェンド声優・野島昭生に父を持つ人気アニメ・ゲームに数多く出演する大人気声優さんです!