勤務先である楽団が、ある日突然解散になったチェロ奏者。そのチェロ奏者が自身の田舎である山形に戻り、納棺師として働く物語。


主役の納棺師小林大悟に元木雅弘、その妻の美香に広末涼子、大悟の勤務先の社長佐々木栄生に山崎勉となっている。その他にも吉行和子、余貴美子、笹野高史と実力派がそろっている。


納棺師とは遺体に適正な措置をし、納棺に納める仕事。適正な措置といっても、遺体に防腐剤らしきものを注射したり、鼻の穴などに詰め物をしたり、服を着せ替えたりするのみでない。死化粧をするのも重要な役割として、劇中では描かれている。


納棺師が死化粧をする前の遺体の顔色は浅黒く、もしくは薄蒼く、いかにも死人であることを漂わせている。しかし、納棺師の化粧の後は、生前の姿が蘇るのである。それゆえ、遺族は死化粧後の顔を見て、もう一度、死者の生前を思い出し、ある人は泣き叫び、ある人はやさしく語りかけ、ある人はより一層の悲しみに浸る。


もちろん素晴らしいのは死化粧だけではない。納棺師のあまりに厳かで美しい納棺の様子全てが死もまた、人間にとって重要な儀式でり、一部であることを再確認させてくれる。


劇中では納棺師は人の死をお金に変える卑しい存在として町の人から忌み嫌われている。個人的には納棺師に対してその様な感情は持っていなかったが、世間的には一般に差別の対象という認識なのだろうか。


ただ、それは納棺師というよりも、死に対する人々の認識が生んだもののように思える。死を忌み嫌う対象から、人間の最後の旅立ちの場として、そしてそのお手伝いをする納棺師を尊敬の対象として見ることで、お寺のお坊さん以上に納棺師が死を司る尊敬の対象として思えてくるのだ。


劇中でも大悟の妻美香(=広末涼子)も、親しい人の死に直面し、死の持つ意味を考えることで、徐々に夫の職業である納棺師に対して理解を示していく。


またその死を引き立たせる意味で、劇中では登場人物たちが非常に旨そうにものを食べている。生きることに必要不可欠な食がとても魅力的に見えている。



ただ、食以上に死を引き立たせる役割を担っているのは性である。とにかく広末がエロい。(ように感じる)なぜか、いちいちスカートがヒラヒラしていて、ひざ上なのである。


食と性が魅力的に描かれていることで、死が強調され、納棺師の存在も際立つ。


個人的には、納棺師を通して、死というものが、いかに身近であり、特別なものかを考えさせてくれ、死に対する認識が少し変わった作品である。


1990年、とても優秀な成績で大学を卒業した青年クリスが、アラスカを目指して、旅をするお話。


その旅の内容はもちろん豪華な旅行ではなく、親族に行き先も告げず旅行を続け、最終的には自然との共存を目指すようなひたすらストイックなものだ。


自然との共存といっても、LOVE&PEACEな、人生楽しく行きよう的なヒッピーテイストのものとも一味違う。彼は孤独であるとする。旅の途中で、ヒッピーの夫婦や軍隊を退役した皮職人などの助けを借り、一部心も許すが、それでもある日突然彼らの前からいなくなってしまう。(あるいはいなくなろうとする)


そして、最終的には究極の孤独(=死)に向かってしまう。


ラジオで昔あるパーソナリティーがこんなことを言っていた。


「昔は一人旅の方が、恋人、友人、家族と行く旅行よりも面白く感じられた。将来の自分、未知の自分と語り合うことができたからだ。ただ、いつの日かを境に、一人で行動することがとても、つまらなく、寂しく感じられるようになった」


細かなことは覚えていないが、大筋このような内容であったと思う。


イントゥーザワールドの主人公が旅する理由として、なんとなく当てはまるような気もする。クリスは大学卒業までの自分が抱えていた日常(=家族、家、お金、そして名前までも)を全て捨て、将来の自分、未知の自分、そして本当の自分を探して旅をする。


しかし、そのクリスが最終的に死ぬ間際に残したメッセージには捨てたはずの過去の自分、クリス・マッカンドレスという本名が書かれている。


クリスは如何にして、自分の名前を肯定し、本当の自分が過去の自分とつながっていることを肯定することができるようになったのか。


映画では自然の中で暮らすことで、そして死を目の前にして、ある種達観して、その様な心境になったように描かれている。


原作のもとになった本当のクリス・マッカンドレスは本当に、全てを肯定できたのか。それはクリスマッカンドレスという自分の存在のみだったのではないか、それもと家族も含めたものなのか、モノ、カネに対しては最後まで逃避的であったのか。


一人旅が寂しく感じる自分にはもう一生わからないかもしれないが、クリスの死に至るまでの心境が気になるところである。



闇の子供たち (幻冬舎文庫)/梁 石日   
¥720
Amazon.co.jp

タイと日本を舞台に行われるている人身売買、それに絡む幼児性愛、臓器売買の話。作者は映画化の際、北野武が主演したことでも知られる「血と骨」などの著作で知られる梁石日(ヤン・ソギル)。


本書を読むキッカケとなったのは映画版の「闇の子供たち」である。映画版は主役に当たるバンク駐在の新聞記者南部役にに江口洋介、現地で活躍するNGO職員音羽役に宮崎あおい、また、江口洋介の片腕となるカメラマンに与田役に妻夫木聡、と豪華なキャストである。また、主題歌は桑田佳祐となっている。


それにも関わらず、本作を見ることのできる映画館は都内でも5会場のみである。テーマ自体が世界の裏の裏を取り扱ったものであることに加えて、暴力や性描写が多く描かれていることがその原因と見られる。

テーマや描写のみでなく、ストーリーも暗い。世界がいかに不公平であるか、かくもどうしようもないものなのか、そしてそこに生きる人間がいかに無力であるかを、一貫して教えてくれる。


そして本作を見終わった後、なんとも言い現せない、モヤモヤした気持ちになる。そのモヤモヤを解決するために、私は原作を手にとることとなった。原作を読んで解決されるとも思わなかったが、映画版にない緻密なストーリー展開の中に、何かモヤモヤを解決する切欠を見出せるかもしれないと思ったからだ。


- 以下ネタバレあります。

原作は映画版と比べてもより一層世界は暗く深く、どうしようもないということを、読者に伝える。映画版では悪役としての側面が中心に描かれ、ストーリーの闇の部分の一部を成す形で描かれている、人身売買の仲介人チューンが如何にして、ここまで生き延びてきたか、そしてその経験をもとに学んだ子供たちを自分に手なずけさせる方法についてのくだりは、読み続けるに耐えない。闇が抱える闇、終わりのない闇が、読者に絶望の感情を抱かせる。


本当に闇を感じさせるのは本作のラストである。映画版では人身売買(臓器売買)の事実を記事にすべく奔走する新聞記者の南部もまたペドファイル(幼児性愛者)であることに、悩みを抱え、自殺してしまうことに、衝撃がある。


しかし、原作版のラストはそれ以上に衝撃的で、問題が深い。


「この国の子供たちのことは、この国の人間が解決するしかない。君は所詮この国では外国人なんだ」


タイの治安が悪化する中、南部がNGO職員音羽に最後に発した言葉である。


これが、大半の日本人が感じている現実ではないか。私が感じたモヤモヤもここに原因があるように思われる。


人権問題に限らず、環境問題。貧困問題、多くの地球上の矛盾を目にする機会は多い。しかし、その多くを客観的な目で見ている自分がいる。


原作では音羽は


「私の居場所は日本ではない」


と南部の言葉を跳ね返す。


しかし、現実問題、他の国の問題を解決するために、かの地に留まれる人間がどれだけいるだろうか。

少なくとも私は南部と同じく、自分の問題として捉えきれない。


本当の闇は、直接闇に関わる人々にあるのではなく、闇を外から客観視することしかできない、しようとしない、闇を取り巻く、現実にあるのではないだろうか。