戦後66年になったのでそろそろいいかなあと言うお話を書き残しておきます。
といってももちろん私は戦争体験者でもないので身内の話になります。
『あんまり誰にも言うたらあかん』と我が家では言われてる話。
身内と言っても母方系統のこと。
母の祖父つまり私の曽祖父が戦争に行ってるのです。
でこちらの私の祖父というのが結構早世だったので曽祖父をおじいちゃんと呼んでました。
孫、ひ孫の仲でも特に可愛がってもらってたので、学生のころの長期休暇のときは結構一人で遊びに行って
入り浸ってたのです。
で、この夏の時期になると必ずと言っていいほど戦争関係のドラマなどがありますが
それを見ると戦争に行くというのは赤紙(召集令状)が来るのです。
これで喜ぶ人はあまり主人公にはいない。それはそうです。
あとは元々の軍人さんとか『お国のため!』的な方が描かれてたりします。
小学生のころのある日。曽祖父が軍人だったとは聞いたことがないので、
ドラマだか見ててふと やっぱり赤紙が来て 曾祖母とか祖母とかみんな悲しんで、それでもお国のためにと
送り出したのかなあと思い聞いてみたのです。
『やっぱりじいちゃんに赤紙来たん?』
すると曾祖母がしばらく黙った後
『そう思うじゃろ?じゃけど違うんよ』 ちなみに彼らは広島の人。
『赤紙無しで戦争行ったん??じいちゃん軍人やったん?』
小学生程度ではもうよくわかりません。
曽祖父本人はニヤニヤしながら話を聞いてます。
『じいちゃんね。自分から行ったんよ。信じられんじゃろ。子供もちいさいのに。』
このときは自分から行くというシチュエーションが小学生的に理解の範疇を超えてたので
これ以上の話はしませんでした。
それから数年後。
多分身内に戦中、終戦直後世代がいらっしゃるなら聞いたことがあるかと思うのですが
『サツマイモjは見たくない』
うちの場合父方がそうでした。
『サツマイモのつるまで食べた』 再現されたすいとんを食べて『すいとんがこんなに美味いはずがない』とか
着る物。食べるもの とにかく何もなかったと言う話
ドラマなんかでもそういう話はたくさんあります。
けど また曽祖父宅に入り浸りに行っていたある日、ふと思い出しました。
母方の人達からはそういう話聞いたことないなあと。
さっそく聞いたわけです。祖母、曾祖母。曽祖父のいるときに。
すると
曾祖母がそれこそ 苦笑いしながら
『誰にも言いんさんなよ』と言いながら話したこと。
『食べもんはいっぱいあったんよ』 『子供の粉ミルクも』 ちなみに祖母の妹が戦争中は乳飲み子だった。
『なんで???』
『このじいちゃんがね 何した思う?』
『軍の物資をくすねて大量にうちに送ってきてたんよ』
曽祖父はいつものニヤニヤニヤ(・∀・)ニヤニヤニヤ
結局そのおかげで戦争が終わってからも蓄えた物資のおかげで
まったく何不自由なく暮らせたらしい・。・・
そりゃ言えないよね
ところで このじいちゃん。
最初に書いた戦争に自分から行ったというだけあって
別に内地でのうのうとしてたわけではないのです。
アメリカとの戦争の最中のほとんどをラバウル基地で過ごしたようです
整備士だったため 直接飛行機で戦ったりはなかったのですが
途中からは連日の空襲に逃げ回り武器は拳銃だけだったとか
戦友が目の前で爆弾でふっとんだりとか
そんな話を少しだけしてくれたときはさすがに泣いてました。
ただ自分から戦争に行ったというのは曽祖父本人が話してくれたところ
中国大陸での戦争が激化していき いずれ 大きな戦争になるだろうと思った。
そうなると もともと機械整備を仕事にしていた曽祖父もただ赤紙一枚で戦争に行くことになるかもしれない。
そうなったら、ただの一兵士になるかもしれない。
それにこのまま今の仕事が続けられるかどうかもわからない。
ならいっそ 腕を行かせるうちに 軍隊に入ったほうがいい。
今なら整備の仕事で入れるはず。(それくらい腕に自信があったらしい)
そうとなったらどこを希望するか。
やっぱり格好いいのは海軍。
でも連合艦隊は当時の日本の憧れの的。船の整備は競争率が高い。出世もしんどい
なら 飛行機だ。 航空隊だ (つc_,` )ウヒヒ ってことで入ったらしいww
結局この目論見はあたり、海軍航空隊ではそこそこの地位まで行けたようです。
当時の写真を見せてもらうと。たくさんの部下に囲まれて いかにもな口ひげを蓄えて 軍刀?サーベルみたいなのを誇らしげに手にした曽祖父の姿が写ってました。
結局 強運なのか 最前線のラバウルでも生き残り、基地を放棄して帰るときも一番危ないと言われた飛行機に乗りながらも 無事帰国。同じときに出発した仲間の潜水艦は沈没したらしいとか。
終戦間際には九州の基地に居たらしいけど広島に新型爆弾が落ちたらしいということで
自宅があるからと帰宅をゆるされ 投下後3日目に広島を歩いて 呉までむかったらしい。
このときの話はさすがに一回も話してはくれなかった。
さて終戦後 パクった物資でそれなりに生活してた曽祖父でしたが
朝鮮戦争が勃発
即座に 会社勤めをやめて 自分の会社、工場を設立します。
日本中が特需景気だったけど 一歩先んじた曽祖父はそれなりに儲かったようです。
多分 戦争反対! とか あんな思いは二度と嫌だ とか言ってる人達が聞くと卒倒すると思うのですが
そんな曽祖父の 口癖は。
また戦争やらんかのう
これを言うと家族中から
絶対外で言わんといて!
と攻められまくってましたがww
まあドラマや映画を 型どおりの戦争ストーリーと馬鹿にするつもりもありませんが
現実にはこんな人も居たのだと言うことを知っておいてください。。
以前のブログを読んだことがある方はひょっとしたら覚えてるかもしれませんけど
私の母方はバリバリの京都の東のおやまにたくさんいる一族。
なんで広島にいるかというと
この曽祖父というのが 坊さんになるのが死ぬほど嫌で逃げ出して
大好きな機械工の仕事があった広島の呉に流れ着き
おそろしいほど美人だった曾祖母に*+・。(。∇°) メロメロ~♪で呉に居ついたという人なわけです
こんなきれいごとを一切言わないじいちゃんが私は大好きでしたw
おしまい。