あひるの子のなかでなぜか一羽だけ、あたまが大きくて、おしりの出っぱった、みにくいひよこ。
その子は兄弟からいじめられ、ネコとメンドリにも馬鹿にされてしまいます。
みにくいあひるの子は、自分がみにくく生まれたせいでみんなにいじめられるんだと思い、ひとり寂しさに耐えながら暮らします。
冷たい雪が降る寒くつらい日々が続いても、お日さまのあたる温かい日もある。
そう思いながら、せいいっぱい生きていきます。
やがて春がきて、水にうつる自分の姿を見て、みにくいあひるの子はじぶんが美しい白鳥だということに気づくのです。
もともとあひるの子は、みにくくなんてなかったのです。
それなのに、みんなと違うというだけでいじめられてしまいます。
言わば、みにくいあひるの子は、“とくべつな子ども”。
ひとりだけ違うということは、それだけ注目されやすくなります。
母親の愛情や、食べ物も、その子にばかりいってしまう可能性もあります。
その子には他の子にはないものがある、ということは、兄弟たちにとってある意味「脅威」だったのかもしれません。
私も人と違うことで集団になじめない子どもでした。
しゃべらないことで変な目で見られたり、仲間外れにされたり、
不登校になってからは腫れ物にさわるかのように気をつかわれたりしました。
私が中学3年のとき、不登校から復帰して、別室登校から少しずつ教室へあがれるようになってきたころ、
同じクラスの男の子が私のことを「特別扱いしてる」と言って、先生と言い合ってるのを偶然聞いてしまいました。
それを聞いたとき、私は「その子に嫌われてるんだ」と思ってショックを受けました。
私のことが嫌いだから、先生とケンカしてまであんなことを言うんだと思ってしまったんです。
でもほんとはそうじゃなかったんですよね。
学校という小さな社会のなかで、
友達関係がうまくいかなかったり、苦手な授業でも受けなければいけなかったりして、
学校へ行きたくないと思うことは誰にだってあるんだと思います。
それでも休まずに頑張って通ってる子から見ると、私のように出たいときだけ授業に出て嫌なら休む生徒がいたら、おもしろくないのも当然です。
その子はその子で、頑張って毎日学校へ通って来てることを認めてもらいたかったのかもしれません。
私にいじわるをした子たちも、その子なりに何か思いを抱えていたのかなと今では思います。
あの頃の私は、普通に学校へ通えるみんなのほうが楽しそうに見えました。
それに特別扱いされることがうれしかったわけでもありません。
私はあのとき、男の子の言葉にショックを受けながらも、なぜかうれしい気持ちになったのを覚えています。
あの頃はわかりませんでしたが、今ならなんとなくわかるんです。
少なくとも、あの子にとって私は、気を使わなくていけない“とくべつな子”ではなかったのですから・・。
不登校の子どもも、かんもく症の子どもも、みんなと対等でありたいと思っています。
人より自分が劣ってると思ってるから、余計みんなと同じようでなくてはいけないと思います。
でも自分でもみんなと違い過ぎてることがよくわかってて、それをとても受けとめきれないんですよね。
たとえそれで苦しんでもがいたとしても、私はムダじゃないと思います。
みにくいあひるの子は、自分がみんなと違うからダメなんだと思う時期があったからこそ、
みんなと違っていても素晴らしい存在なんだということに気づくことができたんです。
今みんなと違うことで苦しんでいても、諦めずに生きてほしいです。
私は、みんなと違っていたことが神さまからの特別なプレゼントだったんだと、今はほんとうにそう思います。

去年の秋、マリーゴールドといっしょに撮りました。