元景寺 その3 秋元景朝・景朝の正室・側室の墓と淀君の墓 | 赤城南麓陶遊ロードB

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 本堂裏(北側)にある墓地の一番北に、総社藩の初代藩主秋元長朝が父親である秋元景朝・景朝の正室・側室の墓と淀君の墓が建立されています。

 

 秋元景朝・景朝の正室・側室の墓は、秋元家歴代の菩提寺である光厳寺の境内(宝塔山古墳)にある秋元氏歴代墓地と共に昭和56年(1981)に前橋市指定史跡に指定されています。

以下側室の墓とされる一方淀君の墓との伝承がある墓所

東隣の

子の墓所は側室の戌の標示がありますが一方淀君の墓と伝わります。

大阪城落城の折、秋元家の陣中に豪奢な着物を身にまとった女性が飛び込んできて、命乞いをしたという。長朝はその女性を、大阪城の主・淀君であると察して匿ったのである。そして戦いが終わった後、所領である総社へ駕籠に乗せて連れて帰ったというのである。

元景寺には、秋元家の墓のそばに淀君の墓と伝えられるものが残されている。そこに刻まれている戒名は「心窓院殿華月芳永大姉」。戒名としては最高位の諡号となっており、説明にある“側室の墓”というには無理があると考えられる。また元景寺には、正絹の大打掛と豪華な籠の引き戸が伝えられており、これが淀君所有の品であるとされている。

しかし、総社に連れて来られた淀君の後半生は不幸であったとされる。世を憚って「お艶」という名で呼ばれるようになったが、その美貌から秋元長朝に言い寄られたものも拒絶したため、遂には箱詰めにされて利根川に沈められたと伝わるとともに、生活になじむことが出来ず、自ら利根川に身を投げたともされる。身を投げたとされる岩が「お艶が岩」として敷島公園に残されているが、この岩には別伝も存在する。伝承であって真偽の程はわかりません。