大前田英五郎の墓 | 赤城南麓陶遊ロードB

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 前橋市大前田町1785-7 前橋市指定史跡になっている大前田英五郎の墓があります。

大前田英五郎、又は大前田栄五郎とも書きます、今や知る人ぞ知る時代の人という感じ

となっています。

 

 大前田英五郎は、寛政5年(1793年) - 明治7年(1874年)2月26日)は、江戸時代

末期に活躍した侠客。栄五郎とも書く。本姓は田島。大場久八、丹波屋伝兵衛と並び

 

「上州系三親分」とも、新門辰五郎、江戸屋虎五郎(本名・岡安寅五郎)と共に「関東

の三五郎」とも呼ばれて恐れられた。昭和期に好まれ、任侠ものの映画の題材とされた。
                       ウィキペディア(Wikipedia)より

 

 父の名は久五郎といい、家は名主の家柄で父も大前田を縄張りの中心とする博徒であ

った。兄要吉も「大前田の盲親分」と称され、栄五郎も小さい頃から父の血筋を受け、

子供のころより、火の玉小僧とあだ名され、身長偉大、顔色浅く黒く、かなり肥満して

いたという。

 

 若い頃は、博徒の縄張り争いから各地を転々と旅し、「天下の和合人」と呼ばれる博

徒の大親分となって、上州一国のみならず関東、東海、甲州といった県外にも知られ、

全国に二百二十四ヵ所の縄張りを持っていたとされる。

晩年は、大胡町の向屋敷に居を構え、母の血筋である高橋家に嫁いだ姪の世話になり、

明治7年(1874年)2月26日に82歳で死去した。墓は大前田と市内大胡町の2か所にあ  

り、大前田の墓石には戒名「観広院特寿栄翁居士」や辞世の句「あらうれしゆくさ

きしれぬ死出の旅」などが刻まれている。

墓地

現地説明板

戒名 観広院特寿栄翁居士

墓石南面に辞世の句「あらうれしゆくさきしれぬ死出の旅」と刻まれている。