大蓮寺の山門を潜って左手に、赤穂浪士の一人である矢頭右衛門七の母「るい」の墓があり
ます。
矢頭 教兼(やとう のりかね、貞享3年(1686年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江
戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は右衛門七(えもしち)。四十七士の中で
では大石良金に次いで若年であり、母妹の世話に苦難したことで知られる。
吉良義央邸への討ち入りを果たした教兼が切腹した後、その母と妹3人は教兼の父・長助の
従弟にあたる奥州白河藩(松平基知)の親族・矢頭庄左衛門に引き取られて奥州白河に赴き、
その後、長女の嫁ぎ先に身を寄せ、白河から姫路、前橋へと移り、宝暦2年(1752年)4月15日
に85歳で没した。
「忠臣蔵」を題材にした物語では、右衛門七与茂七の家族は母だけの場合が多く、息子の足手
まといになることを嫌って母が自害して果てるという筋書きに脚色されることがある。
右は旧石塔