自分のことほど、見えないものはありません。
肉体と心、そして精神とが揃い、3つのベクトルが同じ方向へ向かうとき、「わたし」という人が出来上がります。
3つのベクトルが揃うと、目指す方向へと自身を運ぶ流れに勢いがつき、人は、能動的に力強く生きる力が湧き起こり、総じて、このような状態を「魂が宿る」と表現しているのだと思います。
自分の中にしっかりと入っていればいるほどに、自分の中から自分を見るのだから、見えなくて当然であると言えます。
目の前で起きる出来事をどんな風に感じて、どんな人が自分の周りにいるのか…
外側の世界の人(他者)を見て、自分を知るしかありません。
外側の世界に対して、自分の内側がどう反応するのかによって、自分を知ります。
水に映る自分を見て、自身の姿形を知るように、「映す」という形でしか見ることができないのが、自分です。
マラソンの中継をイメージしてください。
解説者の方は、上手に周りの状況を説明します。
広く狭くを見渡し、先頭、後続との距離や、走っている選手の様子、状況を客観的に捉え伝えます。
実際に走っている選手が、そんな風に実況ができるでしょうか。
到底できることではありません。
目の前のやるべきことに一生懸命であれば、あるほど、周りを見渡す余裕もなく、そもそもに競技者である選手と解説者は、役割が違います。
わたしたちは、解説者のように自分以外の人については、何とでも言えるのです。
極論に聞こえるかもしれませんが…
本人ではないからこそ、他者について無責任に言いたいことを言います。
その言葉は、批判的であったり、否定的であるかもしれません。
いや、むしろ自分自身のことが見えないことを忘れ去り、妬みやひがみさえも込めて、散々に言うことが多いでしょう。
こうなっては、中立的な解説者にもなり得ず、テレビで観戦しながらアレコレ言う視聴者と同じです。
あのユニフォームのセンスはひどいと言う人もいるでしょう。
あのフォームは、なっていないと言う人もいるでしょう。
マラソン選手は、解説者やテレビで観戦している人に何を言われようと、目標であるゴールを目指して走れば良いと思いませんか?
目指しているものさえ、自分の中で明確であれば、人に何を言われようと気にすることはありません。
人に何と言われようと、凹まない。
その言葉に尽きるのではないでしょうか。