女だから強いられた人生
けれど、女だからできることもある。
今、思い返せば、父は、わたしに自分自身を投影し、一身に愛を注いでいたのだと思います。
投影しているからといってニセモノの愛ではなく、投影していようが、していまいが、注ぐ愛は、その人そのものの愛であることに違いはありません。
自分自身が果たせなかった後悔や願望、コンプレックスをやり直すかのように、投影という「外側の世界にいる誰かに愛を注ぐ行為」は、それほどまでに欲しても手に入らなかったものを愛する人には与えたいと思う「無意識の愛情」です。
本当は、自分自身が欲し、願い、やり直したいと思っている、自身の人生。
けれど、過去には戻れません。
やり直せない何かを誰かに託す行為は、自身の人生を誰かに明け渡しています。
投影される側がその事実に気づくのも、この世に生を受けてから、だいぶ経ってからのことでしょうし、そのときには、多くの掛け違いが生じていることもあるでしょう。
慣れ親しみ、気づくことのない多くの「当たり前」が、わたしたちの心に埋まっています。
悪く言えば、親に見えない鎖でつながれているとも言えるでしょう。
この鎖は、親が亡くなろうとも、自身で解くまでつきまとい、ときに、その呪縛に苦しめられることもあるでしょう。
と同時に、わたしたちは、その呪縛に気づき、自身を解き放つ自由をも与えられています。
自身の中に入り込んでいる誰かの価値観ではなく、自分の感じたままに、人生の舵を切ることができるのです。
自分がやりたくてやっていると思っている言動や選択が、自分の中から出たものと異なるとき、その回数を重ねるごとに、心と肉体とに分離を生んでいきます。
繰り返せば、繰り返すほどに、本当の自分は、どこかへ追い出され、影を潜めていきます。
自分の本心を知るためには、「中に入り込んでいるもの」と「自身の心」との見極めができるほどに、自分自身を知ることが必要です。
わたしの中には、女として生まれながら、男としての在り方が、たくさん埋まっていました。
そのチグハグに苦しむことがなかっといえば嘘になります。
特に、一番大きな影響を受けるパートナーシップにおいては、普通とは言い難い体験をたくさんさせてもらいました。
けれど、男として生まれていたら体験しえなかったであろう、その違和感があったからこそ、
誰かではない自分の心とつながったとき、
女性としてこの世に生を受けた意味を知ることができたと思っています。