2011年3月11日

震災のあった日、


私はその日ちょうど

3年目の最後の実習中でした。


あのね、私ね、

ほんとにビリッけつなひとで

実習も居残りしてて

留年するかみたいなひとで。


落ちるわけない実習で

ことごとく落ちて

ほんと常に底辺にいた人間でした。


まぁ、そんな私の

居残り実習中に震災は起きた。


座位保持からの移乗介助と

その移乗に対しての評価、

訓練へつなげることを目的として

患者さんの移乗動作をしていたとき。


患者さんと共に立ち上がった瞬間。


ぐらっと大きく体が揺れて

倒れるかと思って座り直して。





「車椅子にもう一度座り直しますよー

しっかり立ってくださいねー」





なんて声かけしていたら。





「地震だよ!

すわってて!」





て、慌てた先生の声。


で、グラグラグラグラ。


開きの扉がガタンガタン

大きく動いて

それを必死に押さえるひと。


他の患者さんたちも

椅子に座って頭を抱えたり

窓から離れてって声掛けあったり。


おぉ〜、訓練が見える。


なんて思いつつ、すごく怖かった。


大きな揺れで

今までこんな揺れ感じたことないから

ここが震源地なんだと思ってた。


私が実習していた地区は停電して

エレベーターも作動しないので

(予備電はあっても

余震によってエレベーターに

取り残されることを考慮して)

階段で患者さんを背負って

病棟まで送っていた。


私はできないので

先生の誘導に従うばかり。


まぁ午後も半分過ごして

もう何もできることなかったので

とりあえず家に帰ることに。


電車も止まっていたので

親に連絡して車で迎えに来てもらった。


その帰りの車の中でも

余震が続いていて

ラジオからは震源地は東北、

津波が来ているって

情報だけがはいってた。


通常であれば30分で帰れる道のりも

1時間以上かかってようやく

自宅に帰ると。


テレビでは津波の映像。


どこも、津波。


信じられなかった、

これが日本で起きていること⁉︎

大雨でどこかの国が…

てやつじゃないの⁇

え、日本なの⁇


宮城県は専門学校の同期生がいて

家族がいたから

余計に心配だった。


翌日から学校へ行くことになって

まぁ電車動いてないので

親が送ってくれて。


専門学校の同期の家に

泊めてもらって。


宮城の家族から連絡は

3日後くらいにきた。


そこから仕送りしたりして。


自分がそれしかできないこと、

自分がそれ以外にできること、

今やれること、

これからやれること。


その日からたくさん考えた。


就職してからも

あの日、自分が体験したこと

ずっと薄れることがなくて。


就職して経験を積んで5年目、

C-RATに加入するべく

災害研修や勉強会に参加した。




9年目、2人目を授かって

子育て落ち着いて復帰したら

また参加しようと思ってた。


次男、低酸素脳症で出生。


離れることが難しくなった。


誰かのために動くより

誰かに助けを求める側になった。


私は今、12年前に抱いた

あの気持ちを隠しながら

自分を支援してくれているひとたちに

感謝して

それだけで生きている。


医療ケア児の親ではあるけれど

求める側、

助けてもらうばかり、

そんなのは嫌だ。


震災から12年、

被災はしていないけれど

心は共にある。




新たな決意、

C-RATにはなれなくとも

踏み出す勇気をください!