フィリピン人の理解しにくい心性。
私に日常的につながりがあるのは、自分の住んでいるフィリピンの人だけ。
タイ人の友人もいるが、私のつたないタイ語ではそんなに細かい話ができない。
今一つ、心の中に入っていけない感じがある。
フィリピンの中で、頭では一応わかってはいても、いつも違和感があることがある。
それは神様のこと。
国民の大半がカトリック。
生活の中に信教は深く根付いている。
大きなショッピングモールには礼拝のついでに買い物ができるようにたいていミサの場所が用意されている。
私自身は、神を信じることはなく、何十年も祈りをささげたことはない。
日本人で熱心なキリスト教徒と話したことも、何十年もない。
辛うじて記憶にあるのは、大学のときに聖書研究会のメンバーと多少交流があった記憶程度。
私は基本的に神を信じる人には敬意を払ってはいる。
(言うまでもないが宗教の名を借りた反社会勢力は別)
基本的には、神の前という前提がつくけれど、誠実にまじめに生きようとしている人が多かった印象がある。
ただフィリピンで見聞きする信じる姿は、やや違和感を感じる。
違和感その1
それは信じる姿(少し言葉を変えると 神に頼る姿)がやや重すぎる、偏重すぎるような感じがする。
具体的にはこんなことを何回も聞いた。
ケース1
経済問題も含めて将来に希望が持てない若者が教会に祈りをささげる
ここまではいいのだが、有名なあるいは伝統的な教会にいくためにマニラの渋滞の中で数時間かけて、約2日分の収入全部を交通費にかけて、祈りにでかける。
ケース2
昼間は学校 夜は仕事。
学校が終わってからこれまた、かなり遠いところまで教会に行ってから仕事に向かう。
他の日だったら4-5時間 仮眠をとる日に、わざわざ教会にいくために睡眠時間を削っていく。
日本人感覚で言えば
「そこまでの時間とコスト、体を削って祈りをささげる必要はあるのか。
毎週教会に行く必要があるのか。余裕があるときでいいじゃないか」
と思ってしまう。
信じる者の立場からすれば違う意見なのだろう。
違和感その2
これは人によって違うのだが、ともすれば目の前の問題に真剣に向き合うことを放棄してしまう、気分的に楽になるために逃げ道になっている場合もあるように思う。
フィリピンの一般人の人々には、この数年間で特別に生活が向上している実感はないだろう。
多少 給料が増えても、あるいは就労の機会が増えても、インフレによる生活コストの増大が相殺してしまう。
なにか問題が起きた場合(病気や事故、急にお金が必要な事情が起きる)が起きた場合、いくら努力や工夫をしてもどうにもならない場合も多い。
そんな中で「神に祈って」いくらかでも気持ちを落ち着けて眠りにつくのである。
私はこういう姿勢は致し方ない面もあると思う。
一方でいくらかでも余裕があるときに、何かの時のために目の前の楽しみを削って貯金しておこうなどという考えはほとんど聞かない。
高収入な人々の一定割合は「神に祈る」「教会に行く」ということも大事にしながら現実と将来のリスクをしっかり見ている人もいる。ただしそれは少数派だ。
かつて私が個人的なトラブルに見舞われ、意気消沈していたときに、かなりの頻度で「あなたのために神に祈る」と言ってくれた人がいた。
それはそれで善意として受け取っておいたが、私は心の中で「いやいや自分の人生は自分で切り開くものですよ」といつも答えていた。
一番大きな違和感は、東日本大震災しばらく後の英会話レッスンで感じたこと。
多くのフィリピン人先生が「日本の復興のために神に祈ります」と言ってきたこと。
思わず「復興は日本の政府や自治体、自衛隊、会社や日本国民自身の手で行うこと。神様が何かしてくれるもんじゃない」とやや強い口調で言ってしまったことがある。
今の私の生活スタイルでは「違和感を感じる」でとどまっている。
ただ消費生活を送るだけの今の生活なら、このままでいけるのかもしれない。
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