2010年12月
東方神起が解散に追い込まれてつらかった時
現在 曇りのない笑顔
リラックスして乾杯
私がつらかった時は色々あるけれど
両親がいっぺんにに病に倒れた時です。
母は脳梗塞で頭はしっかりしていましたが寝たきり状態。
昔としては珍しく5歳年下で恋愛結婚だった父が
元気で母の面倒を見てくれていました。
実家は東京下町にありました。
私は姉と2人姉妹で
2人とも旦那の仕事のため
私は実家まで片道2時間
姉は片道、新幹線を使って半日という距離に住んでいました。
母が肺炎で入院した時、父の肺がんが見つかりました。
手術ができない状態だったので
抗がん剤治療が主でした。
姉は観光関係の仕事の傍ら「小林正観」さんのお世話係をしていました。
小林正観さんは婦人会に毛の生えたような20~30人の集まりにも
気軽に来て講演なさる方で、姉はその会場手配などをボランティアでしていました。
私は勤めていた会社の社長が投資話に乗せられて会社が倒産、転職したばかり。
義理の兄は「86子(ハロ子)ちゃん、田舎ではなかなか今度入社した会社みたいに大きいところはないよ。これからどのくらい、お父さんたちも長くかかるかわからないから、やめないでやれるところまでやってみたら?」というので事務だし実家までの交通費のことも考えて仕事を続けました。
姉が平日、私が土日と介護に通うなか、
私が実家に行っている留守に、夫が勝手に貯金を下ろして飲み屋に通っていたのが発覚。
私は軽いウツになったのか、ジャガイモがむけない。なぜだかジャガイモの皮がむけなくなりました。
追い詰められた気持ちで、正観さんの言う「ありがとう」を
勝手にアレンジして「○○〇(父の氏名)さんありがとうこざいます。」と言い続けていくうちに
姉と泣き泣き母の施設を探していると、知り合いが人も設備もいいところを紹介してくれたり、
父の病院の先生もこちらが恐縮してしまうほど親身になってくださったり、
やがて父自身も、退院して家に帰り、毎日母の施設に見舞いに行けるようになり。
母が亡くなった時も、喪主として母を送りました。
母が亡くなったあと2年ほどして父もあまり苦しまずに他界しました。
「○○〇(父の氏名)さんありがとうこざいます。」がよかったのかはわかりません。
だだ、あいうえお、かきくけこと言うような感じで
よくなれ!というような感情をこめずに淡々と言っていたのがよかったと思います。
あの頃は、苦しくて辛くて先のことを考えるより「○○〇(父の氏名)さんありがとうこざいます。」を言うしかなかった。
今日「ありがとう、ありがとう」とあいうえお、かきくけこと言うように感情をこめずに言ってみた。
何んだか、胸の奥がツーゥンとして、泣きたいような、自分は何もしていないのに
大きな力に守られている。ありがたいと感じることができた。
正観さんは数を数えてと言っていたけれど、私は個人的にマイナスのことを考えるくらいならありがとうを言ったほうがましと考えていた。
数にとらわれるとこんなに言ったのに、まだ良くならない、叶わないと思ってしまうので、
期間や数にとらわれることなく言っていたのが良かったと思います。