幸せな家庭を築かれている方、家族を愛している方には、とても不快な内容です。
タイトルでお察しの上、ここを閉じてください。
ゴリの支えとカウンセリング&服薬のお陰で、私は少しずつ食べられるようになりましたが、距離を置き始めた母からは、毎日50回以上の着信と数え切れないほどのメールが届きました。
メールを恐る恐る読んでみると、罵詈雑言の羅列。
私はまた地獄へ落ちて行くような気持ちになりました。
そんな私に「携帯は俺が預かるよ。音は消しておくし、メールも読まない。」とゴリは言いました。
戸惑う私に「とにかくお母さんから離れて、自分の事だけを考えて。」と言われ、携帯はゴリに預けました。
最初は気になって仕方ありませんでしたが、“手放してしまった”ことで少しずつ落ち着きました。
こちらから連絡する事はほとんどなくなりましたが、“母の日”と“母の誕生日”だけは花や洋服を贈り続けていました。
思い遣りではなく、“子供の頃からの習慣”だったのですが“洗脳や呪縛から抜けていなかったのだ”と、今は思います。
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それでも明らかに変わりつつあった私ですが、8年前の春に足の病気が発覚して手術が必要だと診断を受けました。
・全身麻酔での手術になる事
・手術の説明を“血縁者”にしたいので次の診察時に一緒に来て欲しい
そう言われ「血縁者はいません」と答えるべきでしたが、その時は考えも及びませんでした。
《ついていい嘘はある》《嘘が必要な時もある》と思います。
「母に連絡を取るしか無い」と、暗澹たる気持ちで連絡を取りました。
手術の事を説明し「血縁者に説明したいと言われたので、一緒に病気に来て欲しい」と伝えると、母は嬉々として「ほら、私がいないとダメなのよ!任せなさい。」と笑って言いました。
母は、手術の説明、入院、退院の時だけ、ゴリの送迎で病院へ来ました。
洗濯物の交換や、差し入れなどは全て仕事をしながらゴリが引き受けてくれました。
手術後は、歩く事も困難だったのが嘘のように痛みも無くなり、体は自由になりました。
でもこれを機に、私はまた母との距離が取れなくなってしまいました。
何を言われてもその場では聞き流しつつ、得意の“気持ちを殺す”の繰り返し。
話は逸れますが。
甥や姪が大学卒業までは年末にお年玉を届けに行っていましたが、その後は弟とは疎遠でした。
この私の足の手術の件を母が弟に報告したらしく、その後は弟から月に1度くらい「元気?」とメールが届き、短いやり取りをしていました。(仲が悪いわけではありませんが、この後はまた疎遠になりました)
でも母は私と弟が連絡を取っている事を知ったら、嫉妬に狂うのは分かっていたので内緒にしていました。
話を戻して。
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ゴリはいつも「またイチから、お母さんと距離を置こう。」「母の日も誕生日も何もしなくていいんだよ。」と言ってくれましたが、馬鹿な私は“厄介な事になるのは嫌だし…”と、逃げていました。諦めていました。
そして月日は過ぎ、手術した反対側の左足の痛みを感じ始め、何年も耐え続けていましたが、とうとう限界を超えました。
病院へ行くと「すぐに手術が必要」と診断されましたが、右の手術の際に“いずれは左も手術が必要になる”と言われていたのですんなりと受け入れられました。
“痛みから解放されるし、嬉しい事”なのですが、私の気持ちは半分以上憂鬱でした。
何年も痛みを我慢し続けたのも、憂鬱なのも“また母に連絡しなければいけないのか”という思いが強かったからです。
取り敢えず、手術に向けての検査を受けている時に【足より優先するべき病気】が発見され、最初は「膵管内粘液性腫瘍(IPMN混合型)」と仮診断されました。
外科医に「僕は、膵臓がんだと確信している」と言われた日に、「手術中は8時間ほどかかりますが、“家族の方に”待機場所で最後まで待機してもらいます。もちろん、食事などで途中 部屋を空けられるのは構いません。」と言われ、私はまた暗澹たる気持ちになりました。
過去の経験から私もゴリも《家族=血縁者》だと思い込んでいたのです。
ゴリは“血縁者”じゃない。
私は意を決して母に電話しました。
まだ続きますが、引き続き【閲覧注意】です。