安部公房


使者:火星人の話。あるセールスマンが実は自分は火星人であると言う。そのセールスマンは人間に似ているが火星人は人間に似ているのだと言い、火星人研究者を悩ませる。
ある人が地球人に似ているからといって火星人ではないということを証明することは中々難しい。


パニック:犯罪が生産性を向上させている部分がある。犯罪クラブ。わざと犯罪を起こして生産性をあげるクラブ。犯罪が鍵の技術だったり、犯罪を防衛する技術を進化させている。


犬:犬が人間みたいに喋れるようになったら憎悪を生む対象になる。人が犬を飼っているのか犬が人を飼っているのか。犬が中々生意気に見えてくる。平等になったがゆえに生まれ憎悪がある。

変形の記憶:死んだ人の魂の話。魂がまた瀕死状態の人に入り生活し始める。


盲腸:人の盲腸と羊の盲腸を繋ぎ合わせる。食事が藁になり、それを食せるように口角、口腔内が変形し、それにより発することができる音とそうでない音が変化し、また性格も変化し始める話。
藁から糖を産出する技術。


手段:保険の話。事故クラブ。わざとケガをして保険をもらおうとする男。そしてそのような男が事故る手伝いをして分け前をもらおうとする男の話。


人肉食用反対陳述団と三人の紳士たち:人を養うことによりその肉を食おうとする三人。食われる人間は養われている間は中々よい生活を育む。養豚場みたいな感じ。豚が人間で、養っている人間がちょっと進化した人間みたいな関係の話。もたちもたれつの関係。


人魚伝:ある男が人形を見つける。その人魚は肉を食べる。ある男は人魚に魅入られ人魚の涙をすすり性的なものを感じる。その涙は実は人間に再生力を与える。人魚の涙をすすった男は実は人魚の食料になっていた。人魚がある男を食べても肉片を残しとけば、またすぐ再生する。これは人間が野菜を食している関係。植物は再生力がある。トマトを取って食しても次の年にはまたトマトができているように、その再生力を強めた働きを持つ人魚の涙をすすった男は素晴らしい再生力を持ってしまう。素晴らしい人魚の餌になってしまう。しかしある時、人魚の食べのこりかすから多数の男が再生されてしまう。そんな話。


誘惑者
追う者と追われる者。追われる者は実は誘導者で追われているのは受動的にではなくて能動的に追われる。わざと追われる立場になり追う者を誘導する。そして追う者を逆に追い詰めようとする。
しかし追う者はそれを見越しててわざと誘導され、追い詰められるふりをし、そうすることによって追われる者を追い詰めるという幾多の立場の逆転劇。
追い詰める立場が追い詰められる立場になりそれにより追い詰める話。


家:Bの家には昔からの祖先が住んでいた。そこに存在とは何かという話。一人の者がある存在を見たと言っても多数の者が認めなければ、それは幻影として片付けられてしまうが、多数の者が認めれば、幻影さえもそれは存在する者として認知されるということ。


安部公房の小説はおもしろい。自分が行っているものが実は他者に誘導されたものだったり、追う者が実は追われていたり、権力を持っている者が実は権力を持たされていたりと立場の逆転劇がある。
また分裂病と通じる話もある。分裂病というか同一性の問題か。自分がこのような存在であると認識していても周りの他者がそのような存在であると認めない時、自我は統一されない。例えば、性同一性障害みたいなものか。自分が男だと思っていても周りが女だと認識するときその人の自我は統一されず甚だ不都合なことになる。
安部公房の小説の中には火星人だとなのるセールスマンが現れる。しかし主人公はそのセールスマンを地球人とみるのだが、このセールスマンは宇宙人同一性障害であるといえるかもしれないのだが、このセールスマンは自分が火星人であることを証明していく。これが中々理にかなっていておもしろいのだが、これにより主人公の認識に変化があり、火星人とは存在しないという認識から火星人とは存在するかもしれないという認識に変化、つまり一つの壁が壊される。火星人は存在しないという認識にずっと留まればよかったのだが、壁が崩壊し、火星人は存在すると、自分は火星人であると思ってしまうわけだが(自分は火星人であり地球に来ることによって未知の病、火星人が地球で侵される火星人である事を忘れ地球人だと思ってしまう病にかかったと思うわけだが)主人公は宇宙人同一性障害になってしまう。
これは言わば生理的な認識の違いからくる同一性の問題(性同一性障害)ではなくて、因果関係の把握の違うところから来る同一性の問題である。
そしてこの因果関係の把握から来る同一性の問題は日常的にあるのではないかと思う。
安部公房の因果関係の把握の仕方は中々おもしろくて、煙に似た生き物が存在してたりする。普通煙があれば火があるからだと考えるが、安部公房はそれを生き物としてとらえる。その煙が生き物ではないという証明はその煙を分析してみればいいわけだが、日常生活においてその煙をいちいち分析するわけにはいかないので、証明できている型(煙は火をたくことにより存在する)にあてはめ認識する。
しかし実際は分析できていない煙を生物ではないという証明はできていない。生物であるという可能性が残されているわけだ。
因果関係の把握とはそういうもので経験的に得られている型にあてはめて因果関係の把握をしている。なのでまだ型が出来上がっていない子どもの因果関係の把握の仕方は大人とはしばし違って創造的である。つまり因果関係の把握の仕方は実は色んな可能性を持っている。多数存在しているということなのだが、現実では生活を上手く営んでいけるような、確かな因果関係の把握をしている。
そのような多数が把握している因果関係ではなく、違うところに目を向ける人がいる。そのような人のことをしばし気違い又は芸術家と呼んでいるのではないだろうか。
一般的な因果関係の把握の仕方の違いが社会に還元できれば芸術家と呼ばれるのだろうが、そうでなければ気違いと呼ばれてしまうのかもしれない。
違った、可能性のある因果関係の把握をしているだけなのに…。

まぁ何が言いたかったのかというと、自分の認識と周りの認識が一致しないということが極端に言えば分裂病に繋がるのではないかということなのだ。分裂病が青春期に多いというのもうなずける。自分の把握の仕方と周りの把握の仕方をどう取り扱ったらよいのか分からなくなる、迷うのが青春期なのだ。
生理的なものであれ思考的なものであれ周りの認識と一致しないというのは自分というものの存在が希薄になる、孤独になることを意味し、それに耐えることは中々難しいので周りの認識と一致しようとする、しかし、本来の自分の認識は違う、これが極端にうまく整理できなければ分裂が生まれてしまうのではないだろうか。
そして周りに因果関係の仕方と一致しないだけで気違いと呼ばれてしまうのことが問題なのではないだろうか。
一般的なものも、自分のも受け入れられるようになることが解決策か。

…長ったらしい文章になってしまったな( -_-)
暇つぶしには最適だぜ。